古代都市ツボクラ

よく食べ よく眠り よく考える,難ある男二人の備忘録

本末転倒

どうも,たけです.

完璧な人生を志そうと思います.

 

僕は本末転倒とかジレンマとかパラドックスみたいなものを発見するのが好きです.だって,良かれと思ってやったら本末転倒ってちょーこわくないですか.

  • おしゃれ論で書いた「かっこつけることがかっこよくない」
  • マスメディア批判批判で書いた「メディアを批判することで閲覧数が増えるから逆に応援になる」
  • 失礼で書いた「失礼だと主張することが失礼を生む」

なんかも思い返せばそういう話でした.

 

こないだ考えたのは「ロマンチストであるが故に浮気を禁止する人のジレンマ」です.

「浮気したらめちゃめちゃ怒られるから浮気しません」よりも「浮気しても別に怒られないけど一途だから浮気しません」の方がロマンチックだと思います.ロマンチストな人がロマンチックな価値観が故に浮気の禁止を叫べば叫ぶほど,浮気しない原因はロマンチックなものではなくモラルや罰則への恐怖によるものになり,浮気されていないことの価値が下がるというジレンマです.

自分以外の人に時間やお金を使われるのが経済的に損失だから禁止する,とかならジレンマというか違和感はありません.

 

気を遣われると気を遣う とか.

馬鹿っていう方が馬鹿 とか.

無駄な時間使わされたって怒る時間すごく無駄 とか.

批判行為を批判する とか.

ジレンマというかパラドックスというか言葉遊びというか.

 

僕はできるだけ物事をちゃんと見て,こういった本末転倒やジレンマみたいなことを少なくとも自覚して,できれば自覚を活かして合理的でお得な行動をしたいと思っています.でも結局はそういう揚げ足取りが行動を制限し,僕は身動きが取れずにあちこちで損する本末転倒を引き起こしているのでしょう.

 

感情を抱くなり主張するなりすればきっと何かと衝突するのでしょうが,自分が矛盾を抱えることに寛容になりたいものです.

雑記

久しぶりにブログを書く気がする。ざわです。久しぶりなのでリハビリ感覚で書こうと思う。

 

浅井リョウの何者を読んで、シンゴジラを見て、博士課程進学が決まって、後なんかいろいろあった気がする。

何者は読んでよかった。冷笑的になりすぎて行動してなかった自分を見つめなおすいい機会だった。他人を批判するとどうしてもその批判基準が自分にも回ってくるから良くない。どうでもいい他人に対しては無関心でいようと思った。後今の自分はしょぼいのであがかないとな、とも思った。

シンゴジラはあんまりおもしろいと思えなかったのに周りでは人気でなんとなくもやもやした気分になった。新しく発見された元素のくせに半減期が日単位なのは不自然じゃない?後その作戦で倒せたならほかにもやりようあっただろ!とも思ってしまった。そういう視点で見る映画ではないんだろうけど、そういう視点で見てしまったから仕方ない。それとは関係なく、自分が面白くないと思ったものが周りで人気だとなんでもやっとするのかは面白いテーマなのでこれから考えていこうと思う。

博士課程進学、不安でいっぱい。大多数と違うことするのがこんなに怖いと思わなかった。就活すれば安心できる気がするけど、それは皆と同じ行動をするから得られるものであって、安定するから得られる安心ではない。自分の中では、根拠のない安心なので意味ない。多分。後22歳の段階で撤退を始めるとこの先の人生がすべて撤退戦になってしまう気がした。この先すべて撤退しきれるほど自分は積み上げてきていないので、もうちょっと戦おうと思う。後人生詰んでも面白いかなと思った。博士課程の方が詰みやすいのかどうか知らないけど。まあそんな感じで博士課程進学した。なんとなくなりそうな気はしてる。得体のしれない恐怖に襲われてしまっているけれども。

 

とりあえず人と話したい。自分の中で思い浮かんだあれこれが拾い上げられずに沈んでいく。本当に人と話したい。適切な人と適切な話題で。

今日はここまで。何個か書きたいネタがあったのでまたそのうちに。さようなら

ナルシズム論 その2 -誰のため-

どうも,たけです.

ぼくの全てを理解してほしいです.

 

ナルシズムは常に僕の判断を鈍らせようとしてきます.このシリーズでは僕が自己のナルシズムとの戦いの中で見つけてきた陶酔ポイントを発表します.

 

僕はみんな自分のためだけに生きればいいと思っていて,みんなが自分のためだけに生きた結果として調和が取れるのが理想だと思っています(というかそもそもみんな無意識的に自分のためにしか動けないと思ってます).自分のためというのはもちろん「あなたの幸せがわたしの幸せ」みたいなのも含めてです.

それとは別に「目的的か」という見方もあります.「目的的」というあれが僕は好きなんですが,これは雑念にとらわれずに目的達成をちゃんと指向してるか,というような意味合いで使っています.ナルシズムは雑念になりがちです.

 

例1.ボランティアは相手のためではなく自分がしたいからしてるんでしょ的な指摘は,目的的にはどうでもいいことです.僕はボランティアのことは全然知らないですが,ボランティアに求められているのはそんなナルシズムを自覚しているかどうかではなく仕事能力ではないでしょうか.

「相手のためにこうするのが自分のためだから」みたいなことになるわけですが,「相手のため」と設定した瞬間に「相手のためにと思ってる自分」とか「葛藤」とか,そんな自分が主役の感情はどうでもよくなるはずなんです.「相手のため」が目的なのにそこに自分を挟み込んでくるのはナルシズムによるものだと思います.それが悪いとは全く思いませんが.「相手のためになるのが自分のため」だとしてそのためには「自分のための成分」を限りなくゼロに近づける必要があるので結局「相手のため」だけが残るはずなんです.ナルシズムを自覚すること,どうにかしようとすることもまたナルシズムなんです.

少し話は逸れますが,純粋に相手のためだと信じ込んでる人に「それ自分のためやからな!」と知らしめたくなる気持ちは誰のため何のためのものなのでしょう.嫉妬でしょうか.ちなみに僕はこのブログを主にそういうエネルギーで書いています.

 

例2.あるアイドルグループが解散したがっているとして,解散するかもってニュースが流れたとします.そのときに「解散してほしくない.応援してる.」って言ってるファンがいたとします.違和感あり.応援してるとして,その人たちが解散したいと言ってるのに,解散しないでほしいって,矛盾してます.誰を応援しているのだろう.応援とか愛とかってあるべきは「全肯定」だと思うんです.相手を応援しているのか,自分の都合のいい行動を応援してるのか.ナルシズムが垣間見える.

 

僕は修行僧がひたすら仏像を彫り続けるような世界観にぼんやりとした憧れがあるので,いつか何らかの神のために何かできたらなぁとぼんやり思っています.

走る

どうも、たけです。

この世に仕方なくないことなんてあるのでしょうか。

 

最近、平均して2.5日に1回くらいのペースで走ってます。長く続かない気もするので調子がいい今のうちに「なぜ走るのか」「どう走るのか」について書きます。

 

僕は高校の時に陸上競技部で短距離をやってました。走るのが好きか嫌いかでいうとまあまあ好きくらいで、陸上競技をしてたというよりは部活をしていて、速く走ろうとしてたというよりは一生懸命走ろうとしてました。今も同じような感じで、達成感を得たくて走ってます。その日1日捗らなくても、とりあえず走って疲れれば達成感が得られるし何か成し遂げた気になれますから。

 

僕が磨くべき武器は走力ではないので、走るためには様々な言い訳が必要です。健康のためとかなんとか間接的な理由はいくらでも挙げられますが、最も磨くべき別の能力のための直接的な取り組みの時間を削っていい理由にはならないと思っています。が、もう走りたいんだから走らせてくれよと思って走ってみると、やはり良い。肉体がなんとなく引き締まると精神的にも引き締まるし、猫背も少し伸びる気がします。翌日にも少し残る疲労とか、洗濯された練習着とか、日々の中に連続的な何かがあるのは精神にいいです。このブログもそうですね。

 

内容としては約4kmのジョグと、180mくらいの坂ダッシュ3本。それぞれに変なこだわりがあります。

 

まずは4kmのジョグ。キャンパスをぐるっと2周するようなコースです。疲れたいけど長い距離はしんどいしそこまで時間かけるのもな、という4km。夜中なので誰もいませんが、キャンパスを走るのでもしかしたら知り合いに見られるかもしれないというワクワクのおかげで走る気になれます。誰もいないならいないで特別なことをしてる感じが気持ちいいです。

コツは最短経路を走ることを推奨すること。例えば本来直角に曲がるべきところを斜めに行くようなショートカットは許されています。それを許さないとちょっと気が緩んでショートカットしてしまった時に罪悪感が伴うわけで、達成感のためのトレーニングにそんなリスクは要らないので最初から許しておきます。またペースを上げることを要求してしまうと上げられない言い訳を考えながら走ることになるので遅くていいことにしています。走り切れさえすればいい。

 

さて、走る目的にはもう一つ大きな要素があります。それは「全力疾走できる人でありたい」というものです。運動しなくなって、ある時ふと「今全力で走ろうとしたらどっかちぎれるな」と思って寂しくなりました。また、高校時代に大会の決勝とか見てると、強い人って400m走の最後150mで1段ギアが上がって、残り80mでさらにもう1段上がってるように見えるんです。なんなんだあれは。僕はそんな風にリミッターを外せなかったなという未練と憧れみたいなのがまだあります。そこで坂ダッシュです。

3本というのは程よいです。1本目は元気なのでいけます。2本目の後半できつくなってきますが、もう走り始めてるのでなんとかなります。3本目はもう嫌になってるんですが、ラスト1本と思えばなんとかやれます。これが2本だとちょっと物足りないし、4本だと3本目できっと手を抜いてしまいます。精神力をあまり使わず且つ後悔せずにやり切れるのが3本です。

走ってる最中は様々な雑念をかき消そうとしながら「回せ回せ回せ回せ」と僕の中の武井壮と松岡修造が叫びます。僕はとにかく脚を回します。「一生懸命に」ではなく「速く」。とにかく今度こそギアを一番上にすることを目指します。

さらに、一つ重要なルールがあります。後半が坂になってる直線180mほどを走って、帰りは歩くんですが、歩いてスタート地点に着いたら即スタートすることです。「ためらわないこと」が重要だとしています。リミッターを外す上で最も邪魔なのが「ためらい」だからです。スタート地点に戻ってから「質を考えるともう少し休んだ方がいい」とかなんとか言い訳して休み始めるとそいつはもうダメです。とにかくためらわないこと。ひと息もつかないこと。即、走ること。これがこのメニューの肝です。知らんけど。

 

終わったらシャワーを浴びて、ほんの軽くストレッチ。ここでちゃんとあるべきストレッチをしようとするのは危険です。体にとってはやった方がいいんでしょうけど、ストレッチって伸ばす具合とか時間とか、妥協できるポイントが多すぎて、とてもそれを自分に課す気になれません。つい妥協しまくって嫌な気持ちになりたくない。

 

以上、こんな感じで終わりです。

 

僕はみんなで仲良く走るサークルに入っていて、そこの人たちはフルマラソンとか100kmマラソンとかけっこー出るんですけど、僕は出ません。きれいめの公式見解としては「怪我したくないから」「練習にそこまで時間を使うわけにはいかないから」ということにしてるんですが、ほんとは「マラソン完走すれば何か得られるんじゃないか」と期待してる自分がダサく見えてしまう不純な自意識が妨げています。ほんとは一回くらい出てみたいんですけど、「おれは走るためにだけ走る!」みたいな、「練習が常に本番!」みたいな、そういうことにしておきたいんです。

 

まぁ、単なる趣味のジョギング、それもたいした量でもたいした頻度でもないものなんですけど、僕はそれがあたかも信仰に基づいた高尚な修行であるかのような心持ちで臨んでいます。自分なりのテーマを持ってることでその辺のジョギングとは格が違うものだと主張しようとしてるんです。

走っている自分はかわいい。誰もいない夜のキャンパスで黙々と走ってる自分はとてもかわいい。僕はずっとそうでした。高校時代、家で自主練してて、そのことをチームメイトに話せば刺激になったかもしれないし、一緒にやろっていうのが高めあう関係だったのかもしれない。練習量やメニューを先生に相談すればより良いトレーニングができたかもしれない。でも僕は1人でやって外向きにははっきり言わず、そんな雰囲気だけ醸しだそうとしてました。文化祭前とかで全然人が来なくて最初1人で部活してたとき、誰かが遅れて来ると嬉しいはずなのに、僕はほんとは誰にも来てほしくなかった。そういう時に1人で頑張ってる自分がかわいくてしかたなかったんです。そういう、自分の嫌なナルシズムを、今何を考えて走ってるかをこのブログで公表することで少し脱却できればな、という、また別のナルシズムでした。

 

「続かなくてもいい」ということにしとかないと続かなかった時に嫌な気持ちになるので「続かなくてもいい」ということにしていますが、せっかくなので続けられたらいいなと思ってます。走ってる自分に対する様々な自意識を忘れられた時に、本当に全力疾走できたりするんでしょうかね。

競争

どうも,たけです.

最高の夏を尻目に僕といいことしませんか?

 

僕は高校時代,部活にはまっていたときは「24時間を睡眠と部活と勉強で埋めよう」と考えていましたし,高校卒業時の受験体験記には「健康的に7時間寝てもあと17時間あるので17時間勉強してないうちはまだいける」みたいなことを書きました.大学になってからは自分もまた怠惰な人間であることを知り,だらだらだらだら過ごしました.研究室に入ってからはその気になって意気込んだ時期もありましたが,そんなものは長続きせず,最近は何かと言い訳しては研究せずに娯楽と怠惰に勤しんでいます.

 

それでも,未だに僕にとって,(広義の)仕事に全てを捧げて何かを成し遂げるというのは理想の世界観の一つです.でも僕が「この人はすごい」と思う高次元の人たちだって結婚もすれば子供も育て,仕事以外のことにたくさんの時間を使ってるようです.もしかして全てを捧げなくても何かを成し遂げることはできるのかい?むしろそっちの方がかっこいいのかい?ということに,最近やっと気が付いてきました.もっとこう,いろんなことのバランスを取って,仕事なんてほどほどに,非生産的な時間の中にこそ幸せがあるのではないか.でもそれを受け入れたとして,極端な僕にはそれが勝利条件の変化なのか,戦闘スタイルの変化なのか,競争から降りるということなのか,よくわかりません.

 

「運動会の徒競走で順位をつけず,最後はみんなで手を繋いでゴールする小学校がある」みたいな話,ありますよね.僕には「ノー残業!みんな17時に帰りましょう!」というのもこれと同じに聞こえます.競争で勝つことを考えるとたくさん仕事した方がいいに決まってるのに,それはしんどいからもうみんなで手を繋いで17時に帰ることにしましょうよと.週末は休みましょうよと.別にいいと思います.仕事のための人生じゃないし.人それぞれのことですから.ライフワークバランス大事です.でもこれは,そういうことですよね.

 

「残業しないといけないのは仕事できない証拠.ほんとに仕事ができる人は残業なんてせずに全部こなせるよ」という意見を聞いたことがありますが,嘘ですね.「1時間に8進む人が10時間働いて成果80」と「1時間に10進む人が8時間働いて成果80」とでは同じ成果です.同じ成果どまりで,より仕事ができたわけじゃない.8時間で済ます人よりも,1時間に10進む上に残業して計10時間働く人の方が仕事できると思いますし,1時間に10進む上に残業して15時間働く人の方がもっと仕事できると思います.

 

高校で部活してたとき,強い選手を見て思いました.強い選手は体力があるのでたくさん練習できます.たくさん練習できるのでもっと強くなります.

受験勉強してて思いました.勉強できる人は問題解くのが速いのでたくさん演習をこなせます.たくさん演習こなすのでどんどん勉強できるようになります.

有能な人間は加速するんです.早くしないと,急いでそっち側にいかないと,どんどん競争に置いていかれる.現実に,自分より有能な人間が無数に存在する.現実に,自分より有能な上に自分より多くを費やしてる人間が無数に存在する.その現実から目を背けながら仕事をさぼる僕のこれは,必要な休息なのか,妥協なのか,思考停止なのか,どれなのか.どれということにするのか.

 

何者かになるには競争に勝たなければならないと思います.何かを成し遂げるには人より抜きんでた力を身につけなければならないと思います.なぜなら大勢にできることに高い価値はないから.何も成し遂げてないことによる匿名性.名乗っても無名.名前すら聞かれない格の差.価値のない名刺.

誰にとっての何者か,何を成し遂げたいのかは人それぞれで,競争の舞台も競技人口も勝利条件も人それぞれだと思います.思うのに,僕はいったいなぜ何を欲しているのか.なぜ何をあきらめていないのか.自己顕示欲.社会的地位.お金.脚光.興奮.上位の世界.圧倒的.おもしろい友人.貴族.

 

そんなことを考えながらも,僕は今日も惰眠をむさぼり漫画を読んでSNSに耽りブログを書くのでした.せめて競争から降りていることを自覚してるだけマシだと言い聞かせながら.

by

ざわです。ブログをはじめてから結構時間がたつので変わった人しかもうこのブログを読んでいない気がする。

変わった人と言えば、かつて岡本太郎という人がいました。太陽の塔の作者の方で、「芸術は爆発だ」という名言を残した人でもあります。この芸術は爆発だという名言について思うところがあったので書き記します。

 

この芸術は爆発だという名言を僕が言ったとして同じ力を持っただろうかというのが今回の命題です。この名言はby岡本太郎というところにその名言たる所以があるのではないかなと思うのです。つまりこの発言はbyざわだと全く力を持たなさそうだなと。

byざわでも力を持たないならばこの言葉の名言性はby~の~によって担保されていることになり、この名言は名言を構成する言葉によって名言になっているわけではないことになります。なんかそれはつまらないなと思うのです。名言と称されるならばby以降がだれであっても名言であって欲しいですし、誰々が言ったから名言になるなら僕たちはその言葉の意味を真に理解できてない気がするのです。だってその発言の正当性を論理ではなく発言者に求めていることになるのですから。発言者が名言の価値を担保しているのが気に食わない理由は、似非科学批判批判の記事で書いたことに繋がるのかもしれません。でも今回は特に芸術関係なので、論理性が必ずしも求められるわけではなさそうです。ただこういう名言に感動した場合、何となくで感動しているんだなということだけは頭に入れておきたいです。何となく。

まあ理解してないもしくは理解できない神秘性が名言を担保しているなら論理性を伴っていないことは仕方ないと思います。本当に理由がさようなら。

byby

ナルシズム論 その1 -受動と能動-

どうも,たけです.

君に思想はあるか...?

 

新シリーズ,ナルシズム論.

ナルシズムは常に僕の判断を鈍らせようとしてきます.このシリーズでは僕が自己のナルシズムとの戦いの中で見つけてきた陶酔ポイントを発表します.

 

僕が何年か前に好きなロックバンドのライブに行ったとき,そこでは観客たちがジャンプしたり手を振ったり歌ったり叫んだりしていて,できる限り集中して視聴したい僕にとってはすさまじく邪魔でした.なんでそんなことするんでしょう?

 

そういうのが楽しいのはすごくわかるんですけど,それって相手が何してようが結局自分の世界で楽しんでしまうナルシズムだと思います.おいしい手の込んだ料理にマヨネーズとケチャップを大量にぶっかけて食べるようなもんです.

ロックバンドのライブを全員直立不動で一心不乱に聞いてるなんて状況は誰もうれしくないのはわかるんですけど,僕は格上のライブに来て格下の自分がそれを聞かずに自己主張する気になれません.人のライブに行っても自分の行為に楽しさを求める人.一観客であることに耐えられず名前を呼んで気を引こうとする人.人の話を聞いていてもすぐに自分の話に持ち込む人.漫画の展開に文句を言う人.それそのものよりもそれを楽しめていることが楽しい人.享受することよりもナルシズムによる能動的行動の楽しさが勝っています.もったいなくない?

 

あとは共感も似ています.相手の話を受け入れるのに共感というナルシズムを介する必要があるのかどうか.わざわざ自己と相手を調整してまで共感する必要などなく,そのまま受け入れられた方がいい気がします.

 

単に自分がそういう楽しみ方をできないことをひがんでるのかもしれません.道ずれにしたいのかも.今度からは二階席てきな落ち着いたところにしようと思います.