古代都市ツボクラ

よく食べ よく眠り よく考える,難ある男二人の備忘録

ナルシズム論 その2 -誰のため-

どうも,たけです.

ぼくの全てを理解してほしいです.

 

ナルシズムは常に僕の判断を鈍らせようとしてきます.このシリーズでは僕が自己のナルシズムとの戦いの中で見つけてきた陶酔ポイントを発表します.

 

僕はみんな自分のためだけに生きればいいと思っていて,みんなが自分のためだけに生きた結果として調和が取れるのが理想だと思っています(というかそもそもみんな無意識的に自分のためにしか動けないと思ってます).自分のためというのはもちろん「あなたの幸せがわたしの幸せ」みたいなのも含めてです.

それとは別に「目的的か」という見方もあります.「目的的」というあれが僕は好きなんですが,これは雑念にとらわれずに目的達成をちゃんと指向してるか,というような意味合いで使っています.ナルシズムは雑念になりがちです.

 

例1.ボランティアは相手のためではなく自分がしたいからしてるんでしょ的な指摘は,目的的にはどうでもいいことです.僕はボランティアのことは全然知らないですが,ボランティアに求められているのはそんなナルシズムを自覚しているかどうかではなく仕事能力ではないでしょうか.

「相手のためにこうするのが自分のためだから」みたいなことになるわけですが,「相手のため」と設定した瞬間に「相手のためにと思ってる自分」とか「葛藤」とか,そんな自分が主役の感情はどうでもよくなるはずなんです.「相手のため」が目的なのにそこに自分を挟み込んでくるのはナルシズムによるものだと思います.それが悪いとは全く思いませんが.「相手のためになるのが自分のため」だとしてそのためには「自分のための成分」を限りなくゼロに近づける必要があるので結局「相手のため」だけが残るはずなんです.ナルシズムを自覚すること,どうにかしようとすることもまたナルシズムなんです.

少し話は逸れますが,純粋に相手のためだと信じ込んでる人に「それ自分のためやからな!」と知らしめたくなる気持ちは誰のため何のためのものなのでしょう.嫉妬でしょうか.ちなみに僕はこのブログを主にそういうエネルギーで書いています.

 

例2.あるアイドルグループが解散したがっているとして,解散するかもってニュースが流れたとします.そのときに「解散してほしくない.応援してる.」って言ってるファンがいたとします.違和感あり.応援してるとして,その人たちが解散したいと言ってるのに,解散しないでほしいって,矛盾してます.誰を応援しているのだろう.応援とか愛とかってあるべきは「全肯定」だと思うんです.相手を応援しているのか,自分の都合のいい行動を応援してるのか.ナルシズムが垣間見える.

 

僕は修行僧がひたすら仏像を彫り続けるような世界観にぼんやりとした憧れがあるので,いつか何らかの神のために何かできたらなぁとぼんやり思っています.