古代都市ツボクラ

よく食べ よく眠り よく考える,難ある男二人の備忘録

姓不要論 vs 姓必要論

どうも、たけです。

夫婦別姓にしたい」vs「夫婦別姓にさせたくない」の議論があります。僕は「より自由な方がええやん」くらいの主張しかありませんが、「夫婦別姓 vs 夫婦同姓」という構図に違和感があるので考えてみます(こんなホットな話題はあちこちで散々語られてるでしょうから、僕が知らないだけでよくある議論のn番煎じでしょう)。

 

夫婦別姓を望む理由の中に、「姓の変更が嫌」というのがあると思います。姓の変更にまつわる色々には手間がかかるし経済的損失もあり得ます。また、自分の姓が変わることによるアイデンティティがどうこう的な問題もあるでしょう。

今挙げた二つの問題に関しては、夫婦同姓にすることの問題というよりは「名前を変更すること」の問題です。そうすると、婚姻による変更に限らず、親の離婚や何らかの事情によって生じる姓の変更というのも同じ問題を抱えていることになります。「名前を変更したくない」という原理を貫くなら婚姻だけでなく全てを改める必要があります。

そうすると、この「姓を変更させられること」の問題を解決するには「戸籍によらず自由な姓を名乗ることができるようにすること」が必要であるように思います。「夫婦別姓/同姓」の問題というよりは「家族別姓/同姓」の問題?

 

個人が自由に姓を選択できるようになった場合、姓は戸籍上の何らかの繋がりを示すものではなく、各個人に帰属するものとなります。そのとき、姓の存在意義はあるのでしょうか。あるグループをくくるためのものとして姓があるとすると、グループをくくれなくなった姓にもはや意味はないように思います。つまり、「姓の選択性を高める」→「姓が本来の機能を失う」ということです。

 

「グループをくくる」という機能を失った場合に、姓が持つ便利さとして何が考えられるでしょうか。「名前を複雑にする」という機能はあると思います。下の名前だけだと同じ名前の人が沢山いますが、姓と組み合わせることでフルネームが同じになる確率がグッと低くなり、個人の識別に便利です。しかし、姓がなくなったらなくなったで各々ミドルネームてきなものをつけるようになると思いますし、問題ないように思います。また、姓があったとしても同姓同名の人はいるわけで、姓によってこの問題が本質的に解消されているわけではありません。

 

こういったことを考えると、「家族別姓」を進めることは「姓不要」という前提に基づくものであると思えてきます。「家族別姓には賛成だが姓が不要とは思わない」という主張は成り立たず、「姓は不要であるがゆえに家族別姓があり得る」ということにならないでしょうか。もちろん「家族別姓にしたいが、今までそうだったから姓はあった方がいい」というのも成り立つと思います。姓がある前提で作られてきたシステムを変更する手間は大きいです。しかし、形式的なものでしかなくなった場合の姓をわざわざ名乗る意味もよくわかりません。

 

以上のことを前提とすると、「夫婦別姓 vs 夫婦同姓」に見えるものは、実際には「姓不要論 vs 姓必要論」であると言えます。目の前の問題への取り組みとしては夫婦別姓どうこうの解決が優先だとは思います。しかし、それが実質的に「姓不要論」であるならば、夫婦別姓がどうこうではなく、名前や戸籍に関するもっと大きなアップデートを想定した取り組みが必要なのではないでしょうか。姓が不要ならば別姓も同姓もないですし、姓が必要ならば同姓でないと意味がないでしょうし。

悟りと詩と微分方程式

どうも、たけです。お久しぶりです。

 

テッド・チャンの「あなたの人生の物語」という短編を読みました。非常におもしろかったです。ここに出てくるいろいろが、自分が主にサリンジャー作品に影響を受けて考えてたいろいろに通ずるものがあり、いくらか考えがまとまったので書きます。読んでなくてもわかるように書くつもりです。

 

サリンジャーのグラース家にまつわる作品に登場するシーモアという人物は宗教的に高度な人です。また、「テディ」という短編に出てくる少年もそんな感じです。彼らは過去や未来について多くのことを知っており、僕はどうして彼らにそんなことができるのか考えた結果、微分方程式のイメージで認識しています(的外れかもしれませんが)。

例えば、我々は宙を飛んでる野球ボールを見れば、そのボールが大体どこから投げ出され、その後どういう軌道を描くのかだいたい想像することができます。この想像を物理学的にやる場合は、まずボールの運動を支配する法則である運動方程式を導きます。これは微分方程式の形で記述されます。次に、その微分方程式に「ある状態(初期値)」を代入します。この「ある状態」というのはこの例では「ボールのある瞬間の状態」で、具体的には「ある時刻の位置と速度」です。あとは微分方程式に基づいて前後のボールの状態が全て計算できます。つまり、ある瞬間の状態さえわかればその過去と未来がわかる、ということです。その予測の精度というのは微分方程式の精度によります。例えば空気抵抗やボールの縫い目を考慮することで精度が上がります。天気予報はこういうことをやっています。とにかく、要するに、「微分方程式」と「ある瞬間の状態」が明らかになれば、その過去と未来がわかるんです。

野球ボールの例で言えば、野球選手は豊富な経験によりこの微分方程式を「会得」することでより高精度な予測を立てられていると言えます。シーモアが過去や未来について詳しいことについても、同じことなのかもしれません。この世界に関する微分方程式を「会得」したことで、ある瞬間の状態を知るだけでその過去と未来が見通せるというわけです。宗教については詳しくありませんが、「悟る」というのは「微分方程式を会得すること」だったりするのかもと妄想します。

 

次に、詩の話。

シーモアは「本当の詩人」であるそうです。これはシーモアが宗教的に高度であることと強く関連している風です。シーモアには詩的に世界が見えていて、また、シーモアには詩を通じて大事な全てを伝えることができます。詩といえば、僕は最近ツイッターで短歌を眺めるのが楽しいのですが、優れた短歌というのは三十一文字を超えた広がりがあり、その情景や文脈が強く想起されます。俳句なんかはもっと字数が少ないですよね。詩のこのような機能についても、微分方程式の例えで考えられないでしょうか。

単にある状態を写実的に伝えるだけのものはあまり詩っぽくありません。一方で、読者の想像をかきたて、その前後の文脈すらも伝えることができる詩というのは「ある瞬間の状態」だけでなく「微分方程式」を内包しているのではないでしょうか。詩が微分方程式ごと与えているのか、各読者が自身の持つ微分方程式に代入しているのかはわかりませんが、いずれにせよ詩というのは微分方程式を駆動させる力を持つもののことなのかもしれません。

 

微分方程式を使って例えることで、いろいろうまく繋った気がしています。例えることわかりやすくなることもあれば、誤解の元でもあるので気を付けたいですが。

理解

彼は盲目であった。しかし、彼は盲目であることに自覚がなかった。彼は目が見えない代わりに、手で対象に触れる事で対象の形を理解出来てしまっていたからだ。彼はなんでも理解出来ると自負していた。

ある日、彼は私の事を理解しようとした。彼は私を叩き、引きちぎり、こねくり回した後、嬉しそうな顔でこう言った。「これは猫だ。」

かつて人の形をしていた私は確かに猫の形に作り変えられてしまっていた。猫の形になってしまったので、私は仕方なく潰れてしまった声帯で、血を吐きながら「にゃーん」と泣くことにした。

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ざわです。ポエム(ショートショート)を書きたくなったのでポエムを書きました。他者理解の残酷さについて書いてみました。

追加合格の是非

どうも,たけです.君の瞳に惨敗. 

大阪大学京都大学の昨年の入学試験問題に出題ミスがあり,採点をやり直した結果「本来合格していた人」が追加合格になったというニュースがありました.この出来事についていろいろもやもやしています.気になるのは以下の三点.

  • 出題ミスとするのか
  • フェアな採点とは
  • 追加合格の基準

 

出題ミスとするのか

今回の件は,問題の条件設定が足りず,その設定の置き方によって二通りの解答が考えられるというものでした.これははたして「解答不能」なのか.

受験者が自分で追加の仮定をおき,その仮定に基づいて解答することは可能です.また,考え得るすべての場合について解答することも可能です.それなのに何故これを「解答不能」とするのか疑問です.「解答が一つになるように設定がすべて与えられなければならない」という甘い前提は誰が決めたものなのでしょうか.

試験のルールは大学側にあるため,大学はこれを「解答不能」と見なすか「解答可能」と見なすか選択できます.大学が「不備のある問題にも対応して説得力のある解答ができる学生がほしい」と考えれば,これを「解答不能」とする必要はありません.今回これを「解答不能」と見なすということは,大学は自らの入学試験を「用意された問題設定が完璧である場合にその問題を解くことができる人を選抜する試験」であると表明する意志を少なからず含んでいると言えます.

研究や就活,仕事においては「答えが用意された問題しか解けないのはダメ」みたいな風潮があるにも関わらず,ここではそういう対応になるのかと,少しがっかりしました.少なくとも今後は入試問題の注意書きに「問題設定の情報不足により解答が一通りに定まらない場合,追加の設定条件を提示し、その条件に基づいた解答を示すこと」とでも書けばいいと思います.

 

フェアな採点とは

次に,これを「解答不能」と見なしたとして,「全員正解にする」という対応の正当性がどう説明されるのか気になりました.「全員正解にする」ということは,「その問題に時間を費やした人」に比べて「その問題に時間を費やしていない人」の方が得をするということです.これはフェアなのでしょうか.その問題に全く取り組んでいない白紙解答の人まで得点するのがフェアなわけがないように思います.かといって出題ミスによるロスがあった人をケアしないというのもフェアではない.

「そのままにする」のも「採点しなおす」のも,どのみちフェアでないのなら,「どちらの方がマシか」を考えるべきです.今回の件では「大学側が何度も見直したが気づかなかった」「受験生から問い合わせが多く寄せられたわけでもない」ようなもので,「受験生のうちその出題ミスによって時間を奪われた人」の割合が多かったとは思えません.よって,この出題ミスが受験生に与えた影響は少ないため「そのままにする」方がまだフェアであると僕は思います.何か僕の知らない重要な要因があるのかも知れませんが,もし「出題ミスがあった場合は問答無用で全員正解にする」といった風潮があるとすると,それは納得いきません.

 

追加合格の基準

入学試験にフェアでない何かが起きたとき,どういった基準で追加合格が認められるのかが気になりました.今回は採点をやり直したことによって「本来合格していた人」が出たということですが,それは「本来不合格だった人」も出ているということではないのでしょうか?「本来合格していた人は追加合格にするが,本来不合格だった人の合格を取り消すことはない」という偏った対応がどう説明されるのか気になります.対応を考えるには大きく以下の5つの考慮事項があると思います.

① 要因が大学側にあるか
② 要因が受験生側にあるか
③ 受験生全員に共通に影響を与えているか
④ どれだけ時間がたっているか
⑤ 合格者が得点基準で決まっているか

①に該当する場合,「大学が悪いんだから受験生にいいようにしろ」的な圧力がかかるような気がします.②だけ該当するの場合はそうでもないかもしれませんが,①だけ該当する場合と対応が異なるのも気持ち悪いです.
③は採点しなおすかどうかに影響します.
④はいつまでさかのぼるかという話で,今5年前の出題ミスが発覚したとして,今更追加合格にするのか?という話です.
⑤が重要です.これは「n人を合格」と定めているのか,基準点を超えていれば何人でも合格できるとしているかの違いです.手続きの中で基準点を「n位の得点」として定めていたとしても,あくまで「基準点を超えているかどうか」をルールとしている場合もあるでしょう.

例を挙げてみます.
例A:昨年の入試においてカンニングがあったことが発覚し,その人の合格が取り消された.これは[ ①× ②○ ③× ④1年 ⑤? ]となります.
例B:昨年の入試において,試験作成者が事前にある受験生一人にのみ問題の内容を教えていたことが発覚し,その学生の合格が取り消された.これは[ ①○ ②○ ③× ④1年 ⑤? ]です.

これらの場合にも「本来合格していた人」は生じて追加合格者が出るのでしょうか?
それは⑤によって変わってくると思います.あくまで基準点ベースの場合,合格者が一人減ったからといって基準点を超える受験生が増えるわけではないので,対応は不要です.しかし人数で定めていた場合,合格者が一人減った分「本来合格していた人」が生じることになります.

今回の件では[ ①○ ②× ③○ ④1年 ⑤たぶん基準点 ] となります.⑤について,「追加合格者は出るが合格取り消しがない」ということは,合格者が人数ではなく基準点で規定されていると(少し意地悪ですが)解釈できるからです.実際阪大や京大がどういった基準にしているのかは明確にはわかりませんが,その基準と今回の対応に矛盾があるとすればもやもやします.今回このような対応をしたということは,今後例Aや例Bのようなことが起きても「追加合格者は出さない」ということになりゃしませんか.

 

おわりに

ただもやもやを書き連ねました.そもそも,別に入試が「フェア」である必要はないのですが,「フェアだと思ってるならそれはフェアではないぞ」と言いたくなるもやもやです.

時と場合によりすぎるので明確に「こうすべき」と意見するのは難しいです.しかしながら,今回の「解答不能」「全員正解」「追加合格」というのは「対クレーム」てきな対応になりすぎではないか?という主張はしたい.今回の追加合格はいわば「詫び追加合格」にも見えます.この対応が「対クレーム」てきな意味で最も平和的で優しい対応であるとは思います.1年遅れででも合格がほしいという受験生の切実な気持ちもわかります.しかしながら,もしこの調子で「何らかの不備があれば追加合格者を出さなければならない」という風潮になれば,アラ探しが加速してまた一つ世の中が息苦しくなるということへの憂いもあるのです.大学はそもそも「より優れた学生がほしい」ので試験の質には言われなくても気を付けるでしょう.試験の質の低さを指摘することと,それに対する補償を求めることとは区別していきたい.

意識高い系

どうも,たけです.

アルミ缶の上におるおかん

 

ものすごく漠然とした話になりますが,意識高いに越したことはないのになぜいわゆる「意識高い系」は「意識高い系」なのか.定義はあいまいなままにして,僕なりの偏見を発表したいと思います.前提として,意識低いより高い方がいいし,何もしないよりした方がいいので,バカにする気持ちはありません.ただ,揶揄される部分には揶揄される火種はあると思いますし,参考になる部分もあれば陥る罠もある気がするので,そこに注意すべく自戒のために書きます.

 

なんとなく思うのは,意識高い系の人たちは「意識が高いかどうか」で群れているように見えるということ.僕は能力の高さで勝負したい派なので,その辺は相容れないところです.

 

次に,言語体系.カタカナ語を多用するのをいじるパターンはよく見ますね.既存の日本語でうまく言えないことをカタカナで言うのは納得できるのですが,今まで日本語で言えてたでしょって言葉がカタカナで置き換わっていると違和感を覚えます.思考が言語に大きく依存することを踏まえれば,言語体系の変化は思考体系の変化と言えるかもしれません.それは成長とも取れますが,付け焼刃の浅い言葉で浅い思考してしまっている可能性もあります.自分の言語体系に変化を感じることがあれば,ちゃんと中身が伴っているか顧みるようにしたいです.

 

内輪感.自分たちでイベントを開催し,自分たちの中で競い,自分たちの中で讃えあってる感じが気になります.独自の言語体系を使うのも内輪感と言えそうです.今自分の生活がほとんど研究室しかなく狭い範囲になっているため,僕も内輪の基準に甘んじないように気をつけなくてはと思っています.

 

そもそも「意識高い系」と呼ぶのがあれですね.ツイッターで見たものの受け売りですが「意識だけ高い系」とした方が良さそうです.僕も紙一重か同じようなもんなので,「能力圧倒的に高い系」になるんだというマインドでコミットして圧倒的成長したいです.

共感

どうも,たけです.

おもしろさの考察シリーズのその6です.

 

下記ツイートが強く印象に残っています.

これと同じような話をします.

腹から「すごい」「おもしろい」と思うためには「共感」が重要だと思います.上記ツイートでいうところの「"説明できる"の部分」がこれからする話の「共感」に相当しそうです.

 

例えばひと昔前はCGで作られた現実と見まがう映像に驚いていましたが,今ではCGでなんでも作れることが当たり前に思え,むしろ「CGじゃないこと」に驚くことが多いです.CGが「なんでもあり」になり共感の外に行っており,その分共感できる現実で起こることの方がアツいです.

 

人工知能が発達して人間の仕事が云々」 といった言説が流行っています.実際に仕事がどうとか人間にしかできないことがどうとかはよく知りませんが,「人間は人工知能よりも人間に共感しやすい」ことが本質的な価値としてあると思います.そのうち人工知能で色々できるようになると,そこにはもう驚きはなく,同じことでも人間がやれば驚くことになる.あるいは,今の話題だって,「人工知能がすごいことをできること」というよりも「すごいことをできる人工知能を人が作ったこと」に驚いているのかもしれません.

 

僕はものづくりの分野にいて,物理的に手に取れるようなものを対象としています.近年VRが盛り上がっていますが,僕がやってるような現実にあるものというのは,電子空間にあるものと比べて「同じ物理法則下にある」ことで人間から肉感のある共感を得られると思っており,重要なポイントの一つであると思っています.

 

一方で,機械にできるけど人には難しいことをやってのける人,例えば計算めちゃくちゃ速い人や写真のような絵を描く人に対して,「すごい」とは思いつつも「それに価値はあるのか?」と疑問に思うところもあります.「共感」に甘えていてもだめな感がある.最初に引用したツイートの話に戻ると『その"説明できる"の部分がギリギリであればあるほど感動は増す』の「ギリギリ」のところです.おもしろくありたいときには「共感」は欠かせない一方で,それはあくまで命綱にすぎません.共感に頼りすぎるとそれはもう「内輪ネタ」です.結局のところ,すごいことをしたければ「どれだけ常軌を逸するか」にこだわるべきだとしておきたい.その常軌を逸すためには「常軌」に関する共通認識が不可欠という意味で,共感が重要だということです.

 

あるいは,「それがすごい」のか「それを人がやったのがすごい」のかについても気にかけておきたいです.

 

p.s.

こうして考えていると,あるあるネタのおもしろさは「あるある」なことよりもむしろ「意外性」にあることを書いた下記記事の内容はまさしくで,よかったのでは.

closedin.hatenablog.com