古代都市ツボクラ

よく食べ よく眠り よく考える,難ある男二人の備忘録

おもしろさの考察 その3 -萌え-

どうも,たけもりです.
おれダッシュ係やるからお前ピンポン係な!
 

おもしろさの考察シリーズその3です.前置きはこちら.

closedin.hatenablog.com

 
僕は工学系のところにいるので,友人やSNS上にも工学系の人が多くて,世界が偏っています.そうするとおもしろさも偏りかねません.
 
アニメだとか映画とかのSF世界への憧れとともにこの業界に携わってる人がたくさんいます.すごくロマンがあって素敵だと思いますし,原動力としても大きくて便利です.僕自身がそういう憧れを持たないのでビジョンがあるのは羨ましかったりもします.一方僕は常に否定と肯定を同時に行いたい人ですので,否定的な視点も持っています.
SFの世界を実現しようというのは,未来的であるというより,むしろ懐古的ではなかろうか.物語の中では未来かもしれないけれど,そのアイデアとしては古いわけです.未来に向かってるつもりでも,それは過去の未来であって,視点が過去にあるのならやはり過去に囚われている気がしてなりません.それってほんとにおもしろいですか?
 
「○○と暮らす社会を作る」とかもよくありますが,それってあなたが○○好きだからそう思いたいだけでは?と思ったり.その趣味に社会を巻き込むの?ほんとにそれが社会にとって最適なの?と.ビジネス的に「○○と暮らす社会を作る」 ことによって○○を扱う我々が利益を得られるから,だと実に納得ですが.
 
工学的技術を駆使したエンターテイメント,本当におもしろいものもあれば,実はおもしろくないものもあります.工学系の人間は工学的技術が好きだったり「わかる」ので,おもしろいかもしれないけれど,冷静になってそういう自分の中の「工学萌え」を除去して見るとおもしろくなかったりするんです.そういうのってすごく危険というか,気を付けないと内輪にだけウケるものを内輪だけで称賛しあって傷を舐めあう群衆の一人になりかねません.内輪ネタは所詮内輪ネタであって,僕の目指すところではない.「ガジェット萌え」とか「新しいもの好き」とか,なんか違うでしょ.
 
自分の趣味嗜好とか,フェチとか,萌えみたいなのって,大きな原動力であり個性であり武器だと思うのですが,同時にそれらは絶対的な評価能力を妨げます.絶対的におもしろいものを成すためには,「萌えのオンオフスイッチ」を身につける必要があるんじゃないでしょうか.

素人

どうも,たけです.
「そんなこともわからないのか」に対しては「そんなこともわからないこともわからないのか」です.
 
少し前の話ですが,僕は東京五輪のエンブレム問題,すごく怖かったです.「私刑」だと思いました.本当にパクリだったどうかについてはここでは言及しません.明らかになっていないからです.明らかになっていないのに,素人の勝手な憶測と糾弾の圧により,まじで降ろされてしまったんです.怖すぎる.ちゃんと調査する能力や権威を持った専門家や機関がいるのにもかかわらず.魔女狩りかよ.疑わしきは罰せよかよ.地動説を唱えたガリレオが有罪判決を受けたエピソードを聞いたときには馬鹿にするのに,ここでは自分の無知による妄信が有能な人間の活躍を妨げている可能性を考慮するには至らなかったのか.
 
素人ってやっぱ素人で,玄人ってやっぱ玄人だと思うんです.素人と有能な玄人の差とか才能の有無の差とかが圧倒的であることを,僕は素人としてよく痛感するのです.玄人は「素人はそれを考慮するべきだということすら知らないようなこと」をたくさん考慮していて,知らない僕には評価しようにもその評価軸すらわからない,そんな差が実際に存在するわけです.
素人なのに「参考程度」の域を超えて主張できる人を見ると,きっと想像絶してるのだろうと思います.コンビニやファーストフード店の接客がいまいちだと本気で怒ってる人を見たときに,高いお店ではサービス料払うことやチップを渡す文化の存在を知らないからかな?と思うのですが,それと似ています.理を知らないから自己の理不尽に気づきようが無い.
STAP細胞とかもそうなんです.どうして何も知らないのに自信たっぷりに石を投げられるんだろう.諦めて無いから?
 
過激に「素人は黙っとけよ」みたいなことを言いたいわけではないんです.僕も素人ですから.素人とか関係なく誰が何を言ってもいいんですけど,それが「参考程度」の域を超えてまじで力を持っちゃうんだってびびりました.世の中は理不尽なのがデフォルトなんだということを改めて実感です.
10000の才能を持った1人に成せても,1の才能しかない10000人では成せないことがあって,それは逆もまたしかり.賢く役割分担したらいいじゃない.
 
そう考えてると,素人の多数決で政治を決めちゃう民主主義てきなあれってびっくりシステムに思えます.ものすごく極端に言えば素人が政治してるということです.当然指摘として「専門家だけで政治を行うと専門家サイドに有利な政治になってしまうので監視が必要」というのもわかりますが,でも素人には「素人に有利な政治」がわからないのでどうせ正しい監視なんてできないのでは?と思うんです.当然これも素人意見であることを知った上で.
こういう発想って中国とか向いてるんですかね?知らんけど.「理想と最善」の後半で書いたことに当てはめれば,「善良な専門家によって行われる善良な政治」が僕の理想で,「素人も含めみんなで決める政治」が最善なのかなぁと思ってます.
 
はたまた,素人が自信たっぷりに地動説(正しいとされてること)を主張することもまた難ありです.これはざわの書いた似非科学の話てきな話.
 
僕は自分の手が届かない領域で起こることはパラレルワールドの出来事だと思っていて,そこで起こることは天気くらいの認識です.観察や考察して楽しむことはあっても自分でどうこうしようという対象ではありません.僕は僕が素人である分野において僕が素人であることに諦めがついています.僕がパラレルワールドに向けて石を投げたところで僕のいる世界は変わらないので,それなら自分の世界を幸せにすることに労力を使います.

エリート意識

どうも,たけです.
僕の女性の好みを挙げていくと空集合ができあがるらしいです.
 
前回のざわの記事を読んで,僕の憂鬱が喩えの感じまで含めてそんな感じだったので,書きたいと思います.交換日記みたいできもいなと思いつつ.
 
僕は漫画が好きでよく「漫画基準の思考」で自己分析します.「今の自分の言動や心理は漫画に登場した場合に "いいやつ” なのか "嫌なやつ” なのか」とか,「主人公ならどうするか」とか.自分を客観視するときに漫画的にかっこいいかどうかで見るんです.
漫画の中で「エリート」は嫌なやつに描かれがちな印象があります.嫌なやつではなくても「本当に大切なことをわかっていない」せいで最終的に主人公に負けるとか.僕は自分がそういう噛ませ犬なエリートになろうとしてる気がしてなりません.
 
僕は博士課程に進学することが決まっていて,それはざわと同じ感じで何かを極めたいからです.僕の言葉で言えば「自分の絶対値を高めたい」になります.絶対値を高めるためには自分に向いてることをするのがよさそうなので,そうするようにしています.「好きこそものの上手なれ」ということか僕は幸運にも好きなことと向いてることが一致していて,大学院での研究も,このブログも,好きだし向いてると思ってるからやっています.
 
これは同時に「自分に向いていないことは無駄」ということになります.やるべきこと以外はやるべきでないこと,その二択なんです.
  • 友達と遊んだところで進捗はないと思うと遊べない.遊びたいけど.
  • 彼女いたところで進捗はないと思うと行動おこせない.彼女ほしいけど.
  • 何かを見て刹那的な感動を得たところで学びが無ければ何も残らない.学びのない感動(例:わー!花火きれい!)は不毛.感動したいけど.
  • 楽しいことをしたところで楽しいことが終わったら楽しくなくなるわけで,何も残らない,不毛.楽しいことしたいけど.
という感じで,まじで不毛だと思ってる僕が僕の行動を厳しく制限します.それで何かを為そうとしてるわけじゃないのなら,それに費やす時間もお金も、無駄じゃないですか.でも怠惰な僕もがっつりいるので,ストイックな僕が遊びを阻止して作った時間を結局怠惰に寂しく過ごすんです.これこそ不毛.あとさすがに日々をもう少し彩りたくて積極的な休息も取るんですが,どうせなら作品を享受して血肉とすべきだと思って好きで向いてる漫画を読むようにしています.漫画を読むにも言い訳が必要.神々しい友達が誘ってくれたり組織的なイベントであれば「誘われたから」という免罪符があるので遊べます.どうぞ.
 
でもまぁいいこともあって,他を捨ててるだけあって研究の取り組みはわりと順調です.こっちだけ見れば僕はわりとエリートな感じです.そんな僕のエリート風なところを認めてくれる人はいますし,僕もそれは自信になっています.でもなんだかおかしい.思ってたのと違う.いったいどうして,この程度の!幸福感なのだ!!
 
あ! この感じ,漫画に出てくる心の貧しいエリートだ!!!
 
 
いろんなことを覚えて,鞭のように鋭い切れ者になったって,それで仕合わせになれなかったら,一体何の甲斐があるんだろ.(「フラニーとゾーイーJ・D・サリンジャー 野崎孝訳) 

 

そもそも「幸せになること」が目的で「絶対値を高めること」は手段の1つに過ぎないというのに,いつの間にか手段が目的化していたのでした.
一時期は野心を頼ってみてたこともあるのですが,野心を満たしたところでそこにあるのは一時的な高揚感であり幸福感ではなさそうだなって冷めました.どうやら僕は刹那的な幸福感の積み重ねを幸福だと捉えられていないんです.刹那的でない幸福なんてあるのだろうか.
 
まぁね,そんな僕のこと,嫌いじゃないんですけどね.不器用でかわいくないですか?
 
僕はもう僕に洗脳されていて,今更引き返せません.なりふり構わず,前だけを見てないと,圧倒的にはなれないと思うしかないんです.ありきたりでない僕がありきたりの幸せをありきたりに享受してどうするんだというエリート意識が,僕を支えてるんです.
またこうも思う.自分に向いてることをするというのは,才能のレールに乗って進んでるだけであり,そこを進む才能もまた用意されたものに過ぎないと思うと,なんか,わりとしょーもないな.

極める

ざわです。この前のたけもりのブログでおもしろさの偏差値理論が僕に刺さりすぎて寝込んでました。俺の持てないネタは偏差値30...。でも偏差値70のもてまくるネタ聞いてもイラッとするだけだろうな。偏差値が低いのは笑いになるけど、高いのは興味深いになりそうだな。となんとなく考えていました。

 

最近というか今日から博士課程においてお金を得るための申請書を書き始めました。何かを極めるってかっこいいなという漠然とした気持ちが根底にあって博士課程に進学しようかなと考えてました。極めるのがかっこいいという価値観や極めることを否定したことがなかったのでここで否定してみようと思います。

 

極めるのがかっこいいという価値観は僕の場合漫画で養われたように思います。ジャンプとかの。ジャンプとかにこの価値観を養われたので、極めるというより一番がすごいという価値観に近いと思います。ジャンプの特にスポ根系の漫画って熱くてかっこいいですよね。だからと言って何かを極めることを目指すのはジャンプに操られる人形じゃない?

それに一番を目指すってコスパ悪いですよね。もし一番を目指す人が同じ競技に10000人いるとして、その中で達成できるのって一人なんです。コスパ悪いというか見返り帰ってくる確率低いですね。スポーツ勝てなくとも楽しいしそれじゃダメなのかな。

 

極めることがかっこいいとしても、極めなくても幸せになれるならそっちを選んでもよくない?とも思います。

極める過程において何かを犠牲にするのをたまに見ますが、極めることによって得られる幸せがちゃんと捨てたものを上回っているのか気になります。勉強や研究、練習に費やす時間をゲームや遊び、旅行に費やしたほうが幸せじゃないのかな?極めることが幸せに対して持つコスパが気になります。

 

このまま博士過程に進学しちゃうと本当にただのお人形になっちゃうな。この価値観を疑ったからといって、あいもかわらず僕は幸せになりたいという気持ちに操られるお人形さんなんだけど。

 

 

マスメディア批判批判

どうも,たけです.

よく芸能人が「お騒がせして申し訳ありませんでした」って謝ってますが「いえいえとんでもないこちらこそ退屈な日々の中で誰かの何かが暴露,追求,批判されてるのを見ることで何かを満たそうとしてしまう我々庶民のお騒ぐネタになっていただいて本当にありがとうございました!」って感じですよね.

 

マスメディアの目的はお金を稼ぐことだと思っています.

事実を報道することでも悪を暴くことでもなく,商売であるからにはお金を稼ぐことが目的です.「メディアが事実を報道していない」と批判する人はまずメディアが事実を報道するもんだという勘違いがあると思います.そして「事実を報道」なんてことが実現可能だという勘違いがあると思います.僕は普遍的事実を見たことも話せたこともありません.

 

マスメディアの報道内容に対する批判もよく見ますが,それってほんとにメディアに原因があるんですかね?

多くのメディアは商品を売ることや広告掲載料で儲けてるので,より多くの人に見てもらうことで収益を得ます.なので当然より多くの人間に関心を持たれるよう世間のニーズをしっかり調査・把握していることと思います.ということは,マスメディアが報じる内容は,我々世間が望む内容だと思うんです.鏡なんです.メディアが世間を煽っているというよりも,世間がメディアを煽ってるんじゃないですか?

メディアを批判する人々の中には批判したいがためにわざわざ記事を見て引用して拡散してる人もいます.閲覧数という指標で見れば批判も賞賛も変わらないじゃないですか.好きの反対は無関心なんです.関心を持った時点でそれは収益になるんです.批判は批判ではなく,無関心だけが対抗手段なんです.

 

もちろん,だめなものはだめで,それを野放しにしていいとは思いません.しかし批判することでそのメディアを煽っておきながら「批判している自分は庶民とは違う」というのもなんだか違和感があるもので.そしてニーズを映す鏡であるメディアを批判するということは世間的には少数派であるわけで,そんな自分の正義を疑いはしないのだろうか.みんなが望むネタを提供してくれるエンターテイナーなメディアは本当に悪なのか.

僕はモラルを信用していないのでモラルを要求はしません.大きなものを動かすには罰則,減税,補助金などで物質的な損得に作用しないとだめだと思っています.メディアの質を高めたければ質を高くしないと儲からないようなニーズを大多数が持つしか無いですし,僕は他人に期待しないことにしてるのでそんなことに期待しません.あきらめ.

そもそも,「メディアの質が高い」ってどういうことなんでしょう?この政治や誰かの人生がエンターテイメントとして消費されていくメディアの中のパラレルワールドで,少数を生贄にして多数が退屈を満たすのがより多くを幸福にする一つの有効な手段と言えなくもないわけです.そういう方針で質を高めるのもまた質の高さ.くそですけどね.人ってそんなもんでしょう.あきらめ.

 

批判内容に対して物申したいわけではありません.むしろ同意するものも多いです.ただ僕はメディアを妄信する世間を盲目的に批判するようなこたぁしたくないんです.根本的に,批判って関心持っちゃってるんでナンセンスなんです.この「メディア批判批判」もまたナンセンスなんです.ナンセンスなんですってなんだか語呂がいいんです.

 

よかったらこちらもどうぞ.

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おしゃれ論

どうも,たけです.

中途半端な完璧主義者なので自分が中途半端な完璧主義者であることを許せてます.

 

僕はここ1年くらい毎回違う美容院に行っています.初回だと割引があったり,ちょっと丁寧に扱われたり,お店ごとの違いを観察できたりとわりと良いです.しかし担当の人が毎回変わるので自分の好みを一発でうまく伝えないといけません.今日は初めてうまく意図を伝えられた気がします.

 僕が「普段髪の毛セットしません」と言うと「セットした方がかっこいいですよ」となってセットすることを前提とした髪型になりがちです.また「髪型にこだわってない」ことになって美容師さんのやる気を削いでしまうのも嫌です.そこで今回は「髪型にこだわってないふりをしたいんです」と言うことでだいたい伝わりました(あとウケた).さらに「なんでなんですか?」と聞かれたので「ボウリング部の人がボウリングうまくてもあまりかっこよくないのと同じ感じです」と言ったら納得してもらえました(あとウケた).

 

そうなんです,「ボウリング部の人がボウリングうまくてもあまりかっこよくないのと同じ感じ」なんです.僕はどうせならかっこよくありたいですが,寝癖の話で書いたように「かっこつけることはかっこよくない」と考えています.おしゃれしてる人がおしゃれなのは当然なわけで,おしゃれしててかっこいいよりおしゃれしてないのにかっこいい方がかっこいいんじゃないかと.

 

どうせ服を買うならおしゃれな服がいいです.でもファッション誌は買わないし流行も気にしない.自分の気に入ったものを買う.腕時計はいいけどブレスレットはだめ.マフラーはいいけどスカーフはだめ.ニット棒はまじで寒いときしかだめだし室内では脱ぐ.願わくば,機能的に生きる中でついでにポテンシャルだけ示したい.「おしゃれしてるな」と思われたいわけでなく,「センスあるな」と認められたらそれでいいんです.
こだわらないことへの強いこだわり.

おもしろさの考察 その2 -偏差値-

どうも,たけです.

誰に見られてるかわからないので一人食堂でご飯食べる時もちっちゃく手を合わせていただきますするようにしています.


おもしろさの考察シリーズその2です.前置きはこちら.

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偏差値30ごっこによって特殊性を主張する事例がよく見受けられます.

ここではテストにおける偏差値の話がしたいのではなく,「平均からのずれの指標」を偏差値と表現します.50が真ん中,そこからの差が特殊性,数値が大きいと「上」で小さいと「下」です.

 

偏差値30というのは真ん中の50から20もずれていて希少性が高いと言えます.でもそれはあくまで実力の話であって,「取ろうと思えば偏差値30取れる人」は偏差値30以上の全員であり,山程います.偏差値30と偏差値70では希少性は同じようでも,その模倣難易度には圧倒的な差があります.偏差値が低い方を模倣することは容易ですが,高い方を模倣することはできません.

 

例えば僕の偏差値が60だとして,僕がより特殊性を得るためには偏差値61になるか偏差値39になるかなわけですが,偏差値61的ふるまいよりも偏差値39的ふるまいの方が簡単で手っ取り早いかに思えます.でもそれじゃあだめなんです.奇をてらってるだけなんですよ.そんなのおもしろくもすごくもないんです.

 

ただ場違いなことしたり,変なもの食べたり,無茶したり,脱いだり,能力の高さの伴わない行動や発想をこれ見よがしにやってみせるだけの行為に特殊性は伴いません.より高みを目指すでもなく,オリジナルでもない,偏差値30ごっこのおもしろくなさたるや,うんこうんこ言って喜んでる幼稚園児と同じレベルです.

 

僕はバカなことでも変なことでもなく,真似できないおもしろいことがしたいので,勘違いしないよう気をつけます.

ちなみに僕の偏差値は2000です.