物理に対する勘違い
ざわです。勢いで買ったネギが冷凍庫の中でひたすらに固くなっていってます。ネギ単体でのおいしい食べ方教えてください。
研究でシミュレーションを扱うようになってからふと芽生えた疑問があります。それは「真実の世界とは何か?」ということです。
私が今扱ってる研究では、実験したものとシミュレーションしたものを比較し、その比較をもってして実験の結果が何か考察しています。では実験とシミュレーションが食い違っていたらどちらを信じるのだろうか。そもそも実験と結果が一致しただけで正しいと判断してよいのだろうかと疑問が育った次第です。(TEM観察でピンと来る人がいるかもしれない。僕はTEMをやっています。)
実験とシミュレーションは一長一短です。実験はある一つだけの現象を見るのがとても難しいです。重力によるボールの軌道の変化を見る時を考えましょう。重力の影響だけを見たくとも空気抵抗が入り込み、ボールを投げる速度、角度にもばらつきが出るでしょうし、重力による影響だけを見るのは意外に大変です。
シミュレーションは一つの現象のみを取り込むのには向いていますが、計算誤差が出ること、また既知でない現象については再現することができないという弱みがあります。
実験がシミュレーションと食い違ったとき、実験に誤差が乗ったのか、シミュレーションの設定では説明できない現象なのか、それとも二つとも異なっているのか、の判断はとても難しいと私は思います。実験と結果が一致していても、実験に誤差が乗り、シミュレーションでは再現できない、いわば双方が間違うことによって一致する場合だってあり得るでしょう。何が真実なんだ...
...真実...?
真実とは何だ?
ここに僕の勘違いがありました。物理は真実や世界を表していると思っていたのです。
でも本当は違いました。物理はモデル化とその数式的表現で構成されていて(多分)、そしてモデルはシンプルで汎用性があるものほど好まれます。重力とクーロン力(電気が引き合う力)などはその一例ですよね。物理とは人間にとって理解しやすいように現象をどんどんモデル化して読み取っていくゲーム。人間にとって理解しやすいように現象を解釈しているだけで、世界が本当はどうなっているのかは関係なかった。
この視点に行った時、自然が人間にとって理解しやすく構成されてるという考えのおこがましさに気が付きました。
結局物理は人間の目で数式を使って表現してるに過ぎませんでした。僕は世界を理解したかったのでがっかりです。ゲームとしては面白いけど、世界を人間の視点で理解する術の一つにしか過ぎなかった。人間やめたい。
失礼
どうも,たけです.
もっと人生に絶望してこの瞳の奥に深い哀愁を宿すことでモテたいです.
礼節を気にするのはめんどくさいです.
どうして世の中に失礼な人がいるのかというと,礼儀があるからです.そもそもこの宇宙に失礼なんて概念ないのに,誰かが「礼儀」を主張するので「失礼」ができました.礼儀を重んじる人間によって失礼が生み出されているわけです.なんて失礼なんだ.
失礼を一つ一つ気にする労力で,不快にならない余裕を磨けばいいと思うんです.自分が不快にならないために他人に礼儀正しさを求めるような,そんな他人に依存した方針,人類に期待しすぎではないでしょうか.許すまでもなく,そもそも気にしなければ済む話.幸せは自分の手で掴み取りたいものです.むずいけど.
怒るために怒るとか,悲しむために悲しむとか,全て不毛じゃないですか.怒ることとか悲しむことそのものが目的ならいいですが,きっとそうじゃないでしょう.礼儀正しくさせることそのものが目的ではなく,不快にならないことが目的であるなら,脳内の不快に至る回路を無くせばいいんです.むずいけど.
僕は自分が不快な思いをしたときは僕がそれで不快になる人間であることが原因だと思うようにしています.逆に僕が相手を不快にさせてしまうのは相手がそれで不快になる人間だからです.僕は「性質」に対して寛容なつもりなので僕や相手がそういう人間であることは責めません.相手を不快にしたくないときは気を遣うこともありますし,僕がそれで不快になることを前提とした振る舞いを相手に期待してしまうこともあります.あくまでそれらは礼儀を主張するものではなく,損得勘定に基づくものでありたいです.
同様に,どうして犯罪が起こるのかというと,法律があるからです.ルールが例外を作るんです.僕が何かでルールを主張する立場になったときには,このあたり,自覚しておきたいです.
おもしろさの考察 その1 -あるあるネタ-
どうも,たけです.
若気があるうちに至るべしだよ.
おもしろさの考察シリーズその1です.前置きはこちら.
あるあるネタというのはおもしろいし使いやすいものですが,それをおもしろいと感じてるつもりのうち何割かは実は非あるある的おもしろさやおもしろさ以外の成分なのではないかと疑っています.だって,あるあるネタ聞いて「あるある」と思ってから笑うまでの過程って,どこかに飛躍がないと無理がありません?
僕曰く,あるあるネタには大きく5つのタイプがあります.
なんとなく,上にあるほど純粋なあるあるネタです.順番にいきましょう.
この二つは本当にあるあるな点が共通しています.
一般あるあるネタはだいたいの人に伝わるあるあるネタで,例えば 「こういうおばさんいるよね」とか.最もオーソドックスで軽い笑いは取りやすいですが,みんなに通じるということは特殊性を出しにくいため,強くする難易度は高いです.
専門あるあるネタはある業界や界隈におけるあるあるネタで,「プログラマーあるある」や「○○好きあるある」などがこれに当たります.これは「自分がその界隈に属しており,そのあるあるネタが"わかる"ことからくる喜び・帰属意識」によって実際のおもしろ偏差値より過大評価されている場合が多い気がします.Twitterなんかでそういうネタを嬉しそうにリツイートしてる人を見るとそんな感じがしませんか.
あるいは,「昔同じゲームにはまった人」と盛り上がるような場合に発生しうる「そのゲームあるある合戦」では,「二人とも同じあるあるをあるあるだと思っていた」ことがおもしろい場合もありそうです.「君もそれ思ってたんだ!」てきな.
この二種類のあるあるネタは素直にあるあるというだけではあるあるとして特におもしろくありません.高度たるには「言われればわかるけど言われなければ気に留めることのないあるある」を突く必要があります.僕にとってはレイザーラモンRGの時代劇あるある「エンドロールが縦書き」がこれで,なんか悔しかったです.
高度であるほどそのおもしろ成分には「たしかに」「なるほど」といった知的な感心が増え,ギャグ的でなくなります.気に留めていなかったことを意識させられるということはそこに意外性があるわけで,それがおもしろいのかもしれません.「あるあるネタ」なのに「意外であること」がおもしろいとすると矛盾があるようでいいですね.
・皮肉あるあるネタ
これは「意識高い系あるある」とか「県民性あるある」とかに見られる,その属性を持たない人が属性を持つ人を揶揄するあるあるネタです.このブログも頼りがちですが悪口はおもしろいので,あるある的というより悪口的なおもしろさがかなり強いと思います.またこれは悪口共通ですが,対象を客観的に捉え笑うことで自分がその対象とは異なることを確認できるため,その優越感の成分も交じっていると思います.
・異常あるあるネタ
これは「極貧あるある」や「○○さんあるある」のような,本来あるあるたりえないことがその特殊な人物・環境においてはあるあるになっているという異常性が,一般人から見たらおもしろい,というものです.これはその異常性をおもしろく話すために「あるあるネタ」の形式をとっているだけで,厳密にはあるある的おもしろさではないと思います.
専門あるあるネタも外から見ればこれに該当し,「知らない世界のことを学ぶ」という知的なおもしろさを含む場合も多そうです.
・妄想あるあるネタ
実際には存在しない設定を仮定し,その仮定のもと成り立ちそうなあるあるを言うやつです.僕はこれをTwitterでよく見ます.例えば,
帰宅重視の子供「こないだディズニーランド行って帰ってきたんだ~」
— 1行ポエムツイッタラー (@1linepoet) 2016年5月27日
こういうのをあるあるネタと言うのは少し無理があるかもしれませんが,こういう特殊設定キャラにセリフ言わす系は少なからず「妄想あるある」を含んでいると主張したい.この例は僕的にはテクニカルですが,とりあえず設定の異常さでそれっぽくしてるだけのテクニカルでない場合も多いと思います.
地獄のミサワの「女に惚れさす名言集」は妄想あるあるネタと皮肉あるあるネタの成分があると言えます.
まとめ.
あるあるネタのおもしろさの中にはあるある的おもしろさでないものが多く交じっていますし,逆に陽にあるあるネタでないものの中にあるある的おもしろさが交じっている場合も多いです.
非あるある的おもしろさの中で特に要注意なのは「そのあるあるがわかる嬉しさ」をおもしろさだと勘違いすることです.異常性や悪口のおもしろさはあるある的でないだけで少なくとも「おもしろさ」ではありますが,「そのあるあるがわかる嬉しさ」はおもしろさですらありません.ナルシズムです.
いろいろ考えましたが,結局純粋なあるある的おもしろさがどうしてこうおもしろいのかよくわかりませんでした.共感とか意外性とかナルシズムとかで説明できる気もするし,あるあるというのがそれ以上分解できない本質的なおもしろ要素である気もします.
おもしろさの考察 その0 -前置き-
どうも,たけです.
この記事では今後不定期に登場予定の「おもしろさの考察シリーズ」の前置きをします.
「おもしろい考察」ではなく,「おもしろさ」についての考察です.願わくば「おもしろさ」についてのおもしろい考察です.
僕は圧倒的になりたいので,よく「おもしろさ」について考察・分析します.
単に「おもしろい」と言ってもそこには「興味深い」「おかしい」「学びがある」「ばからしい」など,様々な種類があると思います.「おもしろい」以外の印象を「おもしろい」だと勘違いしてることもあると思います.
僕は過大評価も過小評価も好きくないので,本当におもしろいものだけをそのおもしろさの分だけおもしろいと思いたいです.また僕自身がおもしろいことをしたいので,おもしろさとは何なのかを知っておきたいです.結局僕の好き嫌いの話かもしれません.
前回書いた京大生の記事は「おもしろさの考察 -京大生-」だった気がします.そういう感じです.
そういうわけで,「おもしろさの考察シリーズ」,始まります.
京大生
京大卒の専業主婦について思うこと。
ざわです。最近壁と良く会話してます。僕が話しかけるとめっちゃ勢いよく「どんっ」って言ってくれます。
京大卒で専業主婦になった人のブログがこの前バズっていてそれについて思うことがあったのでここに記そうと思います。
結論としては「別にいいけどそれを悪びれずに書くな」です。
まず初めに、賢い人は同意、嫉妬深い人は批判という構図に落とし込んでいることが気に入りませんでした。批判することによって、嫉妬深い人にカテゴライズされてしまいます。まともに批判を受け入れる気がある人がすることではないですよね。まあストレスたまってたみたいなんで同意が欲しかったんでしょうね。
でも何よりも腹が立ったのはこの人が大学の存在の意義について全く言及しておらず、自分のことしか考えていなさそうなところです。大学特に京大のような国立大学法人は優秀な学生を入学試験によって選別し、優秀な研究者を雇い、多くの知が集積する場であり、国から税金を投資されて教育施設、研究施設として運営されています。大学は優秀な人や研究結果を社会に還元することを目的にしているはずです。
このブログの著者は子育てを社会貢献としていました。確かに子育ては社会貢献でしょう。しかしその社会貢献は大学に行っていないとできなかったものなのでしょうか。
この著者だけでなく受験という制度のせいか入学は勝ち取った権利とみなしている人が散見されますが、その前に大学で教育を受けられるのは国民の税金が投資され、大学を維持向上させていこうと努力してきた人があってこそのはずです。確かに勝ち取ったものでもありますがその前に与えられたものなのです。
そしてその場所で国民の税金を投入して教育を受けたということは、それ相応の暗黙の義務「ノブレス・オブリージュ」のようなものが発生するはずです。それを果たせなかった場合、大学の存在は危ぶまれます。例えば、京大卒業生が全員結婚して子育てに専念した場合、京大は今ほど税金を投入されることはおそらくないですよね。
この著者は結果的に大学に寄生していたことになります。
ブログ中で述べられていたように社会貢献が何かという問題は確かに難しいです。しかしそれは自分で考えないといけない問題だと思います。
まあ自分の人生をいかに生きるかは自由ですが、自分の行動が大学の衰退に一役買ってることに関してはこのブログの著者に自覚的になってほしいです。
チート
どうも、たけです。