魔が差す
どうも,たけもりです.
来る日も来る日も山崎まさよしの「One more time, One more chance」と全く同じ気持ちでまだ見ぬ運命の人を探しています.
いつからか「そのうち魔が差すんじゃないかな」という漠然とした不安を肌で感じるようになりました.
道端に落ちている空き缶をポーンと蹴り飛ばした後,その無意味で無慈悲な暴力性に気がつきゾッとしたことがあります.もしそのとき僕がたまたま右手に包丁を握っていて,道端に落ちていたのが肉塊だったとしても,同様に何も考えず刺してたんじゃないのか.人は状況が揃って魔が刺しさえすればなんだってやるんじゃないのか.誰もそんなに違わないんじゃないのか.
わかる人にはわかると思うんですが,「死ねる感じ」ってあります.なんとなく寂しいときとか,友達と遊んだ後とか,特に何もないときでも,ふとした瞬間にいろんなことが虚しくなって,「あ」となって「すっ」となって,死ねる感じになるんです.死なないんですけどね.魔が差して思考停止する前提だから,為す術ないのがちょっと怖い.人身事故による遅延情報を見ると,この人は遺書とか書いてその気で死んだのかな,それともなんか死んじゃったのかなって思ったり思わなかったり.
今日はいつもより多めに「あ」ってなりました.何にも手がつかないのでブログに吐き出してみるという,摩訶不思議,死ねると見せかけて前向きである.ふと魔が差してやらかしちゃう,そんな非日常性に焦がれた逃避行動なのかもしれない.
だとして僕はどうすればいいのだ.やるしかないのは知ってる.救いがあって救いが無い.虚しい世の中であるよ.誰か毎日おいしい飴を与えてくれないものか.達成感の味がする飴.
おもしろさの考察 その3 -萌え-
おもしろさの考察シリーズその3です.前置きはこちら.
素人
エリート意識
- 友達と遊んだところで進捗はないと思うと遊べない.遊びたいけど.
- 彼女いたところで進捗はないと思うと行動おこせない.彼女ほしいけど.
- 何かを見て刹那的な感動を得たところで学びが無ければ何も残らない.学びのない感動(例:わー!花火きれい!)は不毛.感動したいけど.
- 楽しいことをしたところで楽しいことが終わったら楽しくなくなるわけで,何も残らない,不毛.楽しいことしたいけど.
極める
ざわです。この前のたけもりのブログでおもしろさの偏差値理論が僕に刺さりすぎて寝込んでました。俺の持てないネタは偏差値30...。でも偏差値70のもてまくるネタ聞いてもイラッとするだけだろうな。偏差値が低いのは笑いになるけど、高いのは興味深いになりそうだな。となんとなく考えていました。
最近というか今日から博士課程においてお金を得るための申請書を書き始めました。何かを極めるってかっこいいなという漠然とした気持ちが根底にあって博士課程に進学しようかなと考えてました。極めるのがかっこいいという価値観や極めることを否定したことがなかったのでここで否定してみようと思います。
極めるのがかっこいいという価値観は僕の場合漫画で養われたように思います。ジャンプとかの。ジャンプとかにこの価値観を養われたので、極めるというより一番がすごいという価値観に近いと思います。ジャンプの特にスポ根系の漫画って熱くてかっこいいですよね。だからと言って何かを極めることを目指すのはジャンプに操られる人形じゃない?
それに一番を目指すってコスパ悪いですよね。もし一番を目指す人が同じ競技に10000人いるとして、その中で達成できるのって一人なんです。コスパ悪いというか見返り帰ってくる確率低いですね。スポーツ勝てなくとも楽しいしそれじゃダメなのかな。
極めることがかっこいいとしても、極めなくても幸せになれるならそっちを選んでもよくない?とも思います。
極める過程において何かを犠牲にするのをたまに見ますが、極めることによって得られる幸せがちゃんと捨てたものを上回っているのか気になります。勉強や研究、練習に費やす時間をゲームや遊び、旅行に費やしたほうが幸せじゃないのかな?極めることが幸せに対して持つコスパが気になります。
このまま博士過程に進学しちゃうと本当にただのお人形になっちゃうな。この価値観を疑ったからといって、あいもかわらず僕は幸せになりたいという気持ちに操られるお人形さんなんだけど。
マスメディア批判批判
どうも,たけです.
よく芸能人が「お騒がせして申し訳ありませんでした」って謝ってますが「いえいえとんでもないこちらこそ退屈な日々の中で誰かの何かが暴露,追求,批判されてるのを見ることで何かを満たそうとしてしまう我々庶民のお騒ぐネタになっていただいて本当にありがとうございました!」って感じですよね.
マスメディアの目的はお金を稼ぐことだと思っています.
事実を報道することでも悪を暴くことでもなく,商売であるからにはお金を稼ぐことが目的です.「メディアが事実を報道していない」と批判する人はまずメディアが事実を報道するもんだという勘違いがあると思います.そして「事実を報道」なんてことが実現可能だという勘違いがあると思います.僕は普遍的事実を見たことも話せたこともありません.
マスメディアの報道内容に対する批判もよく見ますが,それってほんとにメディアに原因があるんですかね?
多くのメディアは商品を売ることや広告掲載料で儲けてるので,より多くの人に見てもらうことで収益を得ます.なので当然より多くの人間に関心を持たれるよう世間のニーズをしっかり調査・把握していることと思います.ということは,マスメディアが報じる内容は,我々世間が望む内容だと思うんです.鏡なんです.メディアが世間を煽っているというよりも,世間がメディアを煽ってるんじゃないですか?
メディアを批判する人々の中には批判したいがためにわざわざ記事を見て引用して拡散してる人もいます.閲覧数という指標で見れば批判も賞賛も変わらないじゃないですか.好きの反対は無関心なんです.関心を持った時点でそれは収益になるんです.批判は批判ではなく,無関心だけが対抗手段なんです.
もちろん,だめなものはだめで,それを野放しにしていいとは思いません.しかし批判することでそのメディアを煽っておきながら「批判している自分は庶民とは違う」というのもなんだか違和感があるもので.そしてニーズを映す鏡であるメディアを批判するということは世間的には少数派であるわけで,そんな自分の正義を疑いはしないのだろうか.みんなが望むネタを提供してくれるエンターテイナーなメディアは本当に悪なのか.
僕はモラルを信用していないのでモラルを要求はしません.大きなものを動かすには罰則,減税,補助金などで物質的な損得に作用しないとだめだと思っています.メディアの質を高めたければ質を高くしないと儲からないようなニーズを大多数が持つしか無いですし,僕は他人に期待しないことにしてるのでそんなことに期待しません.あきらめ.
そもそも,「メディアの質が高い」ってどういうことなんでしょう?この政治や誰かの人生がエンターテイメントとして消費されていくメディアの中のパラレルワールドで,少数を生贄にして多数が退屈を満たすのがより多くを幸福にする一つの有効な手段と言えなくもないわけです.そういう方針で質を高めるのもまた質の高さ.くそですけどね.人ってそんなもんでしょう.あきらめ.
批判内容に対して物申したいわけではありません.むしろ同意するものも多いです.ただ僕はメディアを妄信する世間を盲目的に批判するようなこたぁしたくないんです.根本的に,批判って関心持っちゃってるんでナンセンスなんです.この「メディア批判批判」もまたナンセンスなんです.ナンセンスなんですってなんだか語呂がいいんです.
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おしゃれ論
どうも,たけです.
中途半端な完璧主義者なので自分が中途半端な完璧主義者であることを許せてます.
僕はここ1年くらい毎回違う美容院に行っています.初回だと割引があったり,ちょっと丁寧に扱われたり,お店ごとの違いを観察できたりとわりと良いです.しかし担当の人が毎回変わるので自分の好みを一発でうまく伝えないといけません.今日は初めてうまく意図を伝えられた気がします.
僕が「普段髪の毛セットしません」と言うと「セットした方がかっこいいですよ」となってセットすることを前提とした髪型になりがちです.また「髪型にこだわってない」ことになって美容師さんのやる気を削いでしまうのも嫌です.そこで今回は「髪型にこだわってないふりをしたいんです」と言うことでだいたい伝わりました(あとウケた).さらに「なんでなんですか?」と聞かれたので「ボウリング部の人がボウリングうまくてもあまりかっこよくないのと同じ感じです」と言ったら納得してもらえました(あとウケた).
そうなんです,「ボウリング部の人がボウリングうまくてもあまりかっこよくないのと同じ感じ」なんです.僕はどうせならかっこよくありたいですが,寝癖の話で書いたように「かっこつけることはかっこよくない」と考えています.おしゃれしてる人がおしゃれなのは当然なわけで,おしゃれしててかっこいいよりおしゃれしてないのにかっこいい方がかっこいいんじゃないかと.