機械と神と人間についての空想
ざわです。最近よく京都に思いを馳せます。毎年5月ごろになると通学路に赤い木の実がなっていたのをよく覚えています。毎年毎年その赤くてつやつやした実の味を想像していました。甘いのかな?渋いのかな?それとも酸っぱいのだろうか?そうして木の実に手を伸ばそうとするのですが、なぜか手が実際に動くことはない。僕はきっとあの木の実の味を知ることはないのでしょう。
なんかちょっとセンチになってしまいました。本題に入ろうと思います。
まあまあ前の話ですが、alphaGoというgoogle参加の会社が開発した人工知能が囲碁の世界チャンピオン?であるセドルを倒すというニュースがありました。神と人間の関係性とか機械と人間の関係について妄想するのが好きなので、個人的に面白い話題でした。その空想について話します。
人類を創造したのが神だとすると、現実世界で最も神に近いのは何なんだろうと考えた結果、遺伝子やアウストラロピテクスなどの過去の動物となりました。この結果は個人的にすごく面白くて、一般に神は人類より能力が優れていると考えられがちなのに、この結果だとそうではない。特に知性という点において神たる動物たちに勝っている。なんかテンション上がりませんか?俺は神よりすごいわけです。
でもこれと同じことが人間と機械の間に起こりつつあります。機械を生み出したのは間違いなく人間だけど、機械は機械にとっての神である人間を超えつつあります。去年機械学習をやって得た知見は、「少なくとも数値化できるものは機械は学習することができ、人間は数値化することによって多くのものを分析、理解してきた。よって機械は人間をあらゆる分野で超えていく。」です。感情は人間に特有のものと思われるかもしれませんが、感情も電気信号と考えれば恐らく数値化可能で機械は学習可能です。機械が感情を獲得するか別として。人間が進化の過程で様々な機能を捨てたように機械も感情を捨てる可能性もあります。入れ子構想や繰り返し構造が好きなので、人が動物を超え、動物が人の神となり、機械が人を超え、人が機械の神になるこの構造が気に入っています。
もしかしたら人間は機械が発達しきった世界で、今人間が神を扱うように機械に扱わて生き延びてゆくのかもしれないですね。
理想と最善
どうも、たけです。
才能の無駄使い - 古代都市ツボクラ にも似たこと書いてますね。
謙虚論
どうも,たけです.
お腹いっぱいで満足したと思っても,数時間経てばまたお腹減るのに,それでもめげずにまた食べるのって,不屈!
最近の記事の内容が実力がどうとか偉そうなのがどうとかなので,流れがきています.僕がよく考察してきた「謙虚論」について書こうと思います.
はじめに
「謙虚であれ」というようなことをよく聞きます.僕も漠然と「謙虚とは優れた性質である」と,そして「謙虚であるべきだ」と思っていました.ところが「あなたは謙虚ですか?」と自問した時に僕は謙虚という概念の難しさに気がついたのです.
- 「はい.謙虚です.」と答えた場合,自分が謙虚という優れた性質を持っていることを主張しているので謙虚っぽくない.
- 「いいえ,謙虚ではありません.」と答えた場合,謙虚という優れた性質を否定するので謙虚っぽいが,発言内容と矛盾している.
というように,どちらで答えても変な感じになります.謙虚が優れた性質であると仮定すると、一筋縄にはいきません.
ということで,
- 謙虚とはなにか
- 謙虚であるべきか
というようなことを考えてきました.
謙虚とは何か
まず,謙虚とされる行動として「謙遜」があります.他人に褒められた時なんかにへりくだるあれですが,謙遜してもへりくだれないと思うんです.謙遜することで評価が上がる世界では謙遜の意図と実際の効果が逆になっているからです.
本気でへりくだるのであれば本気で自己評価を下げに行くべきで,なんなら褒められたときは「まぁね」「天才やからな」「え?この程度で?」とか調子に乗った方が印象悪くなって自己評価を下げられるので,結果としてはむしろ謙遜を達成できるかもしれません.自己評価を上げることを狙った謙遜は謙遜たり得ないんです.
では逆に,調子に乗るのはどうなのか.
調子乗ってたら,それは,やっぱ,謙虚じゃないでしょ.だって調子乗ってるし.
先ほど述べたような「真に謙遜するための戦略的調子乗り」をまじでやったとしても,そうやってある種の嘘をついて相手の印象を操作しようとするのは謙虚らしからぬ気がします.あえてそれに理由をつけるとすれば,もう「謙遜することは謙虚ではない」ことになっているので,「最終的に謙遜すること」を狙ったその戦略ももはや謙虚ではなくなっているからです.
はい.
つまり,「謙遜すること」も「調子に乗ること」も謙虚ではないです.
謙虚とは何か.僕の今のところの答えは「自己を過不足無く評価すること」です.
完璧に,過不足無く,ありのままの自分を,見積もって,それに見合った振舞いをする.This is 謙虚.もったいつけて言うほどのことではなかったかもしれませんが.
謙虚であるべきか
どうあるべきかは人生の目的によりますが,僕は謙虚の定義を見直しても引き続き謙虚であろうとしています.自己評価を高く見積もることも低く見積もることも,現実と食い違いがあれば正しい判断に繋がらずに損しそうだからです.それにわざわざへりくだる系の謙虚なふるまいって,嘘じゃないですか.嘘はよくないね.
「どこまでが自分の実力か」「何が先天的で何が後天的か」「自分の言動の意図は本当はどこにあったのか」「過去を美化しがちだが、その回想は本当か」など問うて、自分を知ろうとしています.それが何の役に立ってるのかはわかりませんが.
おわりに
書いてみるとわりと印象論.そして「態度としての謙虚」と「姿勢としての謙虚」とがごちゃごちゃしている.なるほどね.
はたまた、上記の議論の一切を無視して,謙虚とは「貪欲且つ懸命に成長を求める姿勢」と捉えてる自分もいるのであった.
模倣と再現(イライラシリーズ1)
ざわです。新生活になれられずにメンタル死に切ってブログ書く気になれませんでした。頑張ります。今回は他人を批判することで元気出そうと思います。
セフレがいる自慢とか、チャラい系テニサーに今までなぜイライラしていたか分かったのでそれについてまとめようと思います。
大学に入ってこういう自慢が急に増えてすごくイライラしたのを覚えています。生まれてこの方彼女ができたことないのも相まってこういう自慢を良くされました。セフレがいることがすごいと思うなら高校でも作ればいいし、チャラい系集団にいるのがそんなに誇らしいなら高校でもそういう集団に属してろよ。なんで大学入ってからそういう自慢する奴が増えるんだよ。
基本的に彼らは模倣しているだけなのに偉そうにしているのが腹が立つんです。彼らがセフレという概念がない世界にいたとして実際にセフレを再現出来るんだろうか。再現できるなら純粋にすごいと思うんですね。でもたぶん作れない。チャラい系サークルにしてもそう。その集団に属していなかったらチャラいこと出来てないでしょ?出来るならなんでわざわざそんなサークル入ってんの?と思ってしまうわけです。
要するに模倣してるだけのくせに偉そうにするなよってことです。虎の威を借りる狐じゃねえかお前はってことです。騒いでるだけの無個性。社会人なったらゴルフ楽しいって言って、爺になったら演歌歌ってそう。
なんで模倣して威張る奴が嫌いなのかというと、模倣しているだけなのに威張るということは模倣していることに自覚的でないし、模倣に自覚的でないやつが何かを生み出せる可能性はほとんどないなと思うんです。そして何かを生み出せる奴が一番偉いと私は考えています。まぁ自覚的であろうがなかろうが何かを生み出せずに終わる人がほとんどなんですけどね。
それに本来みんな遺伝的要因と環境的要因の二種類ののベクトルが作り出す空間の一点で、ほかの点と重なることはほとんどないのに、ほかの点と重なった人生過ごすなんてもったいないじゃないですか。大学に入ったらテニサーに所属して、会社に入ったらゴルフ始めて、老人ホーム入ってパターゴルフ始めて、そんなんつまんなくない?おんなじことするにしても、せめて模倣からステップアップして自分の行為と欲求を理解した再現にした方が面白くないですか?(再現はまあ自分の中でそういう感じに定義されています。)
テレビに映ったとして
どうも,たけです.
あらゆる批判は「別に良くない??」で解決する説を僕は支持し,あらゆる批判を僕は批判します.
少し前のことですが,大学の卒業式がありました.その様子が夕方のニュースで取り上げられたりするので,僕の母親はそれらを録画して,僕や母が知ってる僕の友人らが映ってないか見返したりします.そんなに映ってなかったみたいなんですけど,それって,映ってたとして,いったい何が嬉しいんでしょう? その日からわりとそういうテーマで考え事してて,落ち着いてきたので,書きます.
別に何らかの能力に注目されてテレビで取り上げられ,それによりその後の仕事が増えるとかならわかりますが,ただ偶然画面に映るだけじゃないですか.ただの色彩ですよ.卒業式に限らず,何かしらでテレビに映りこむとか,たまたまインタビュー受けるとか,そういう「庶民として」「名もなく」「自分でなければならぬ特別な理由なく」「内輪以外には何の印象も与えない」「その後数秒で忘れられる」「というかそもそも記憶されない」テレビ出演に,何の価値もないじゃないですか.目立ってすらない.
いや,映ってたら嬉しいのは別にわかるんです.わかるんですけど,その嬉しさを説明できないというか,冷静に考えたら何の得もないしそんな気にさせられてるだけで本当は何もうれしくないのでは?
(というかもうあらゆる感情は気のせいなんじゃないかと思ってるのですが,その話は今回は置いておきます.)
これは僕が「内輪ネタ」を「これは内輪ネタだから僕たちにとってだけおもしろいことであって本当はおもしろくないんだぞ」と自覚したいことの延長なのかもしれませんし,実力の在り処の話の延長なのかもしれません.というか今日書いてる疑問が先にあって実力の話になった気もする.
気づいてますか?冷静に考えてもおもしろいことだけがおもしろいんです.
他にも,テレビに知ってる場所が映ったとか,それが,いったい,なんだというんだ.
テレビでよくやってる懐かしい曲特集とかアニメ特集(ランキング?)とかって,「きっとあれ出るな」って待ちわびながら「お,ほらきた」って思いたい気持ちだけで見てる場合が多いと思うんですけど,それも意味わかんなくなくなくない?YouTubeで好きなだけ見なよ.そんなことして承認欲求を満たそうとしてるのかい?
うむ.
まぁ,実際,僕がその立場になれば普通に何かしらの感情が湧いちゃう気もします.意味わからんけど.でも他人がそうなってるのを見ると疑問抱くし,それがいかにも庶民的だから自分はそうならないでおこうと思うんです.そうやって僕はわざわざ自分の行動を制限するも,案の定その通りになって嫌な気持ちになるのでしょう.「嫌な予感というのは期待でもある」ので,そうやって嫌な気持ちになることが僕の庶民性を否定してくれてると勘違いしてるのかもしれません.そしてこうやって「俯瞰できたからこその苦しみ」みたいなことを悦に語るのはなかなかキモい.でもそのキモさを自覚できてることは褒めてあげたい.でもそうやって結局自分を褒めるところもまたキモい,というような無限ループを毎日毎日回してる方が,よっぽど意味わからないのかもしれませんが.
思うに,これらはそういうゲーム.思考遊びなのでやんす.知的なことで.
実力の在り処
どうも,たけです.
世の中,自分だけは人とはちょっと違うと思ってる人ばかりでしょうけど,僕だけは君たちとはちょっと違うから.
「実力の在り処」についてよく考えます.
- あるときは「自分の実力」について(すぐ調子に乗るので)
- あるときは「他人の実力」について(負けず嫌いなので)
- あるときは「実力」について(「実力者」になりたいので)
果たしてどこにある何が実力なのだろう.
トーク番組なんかを見てるとよく「この前出会った変わった人の話」みたいなのがあります.その話でおもしろいのって,話し手じゃなくてその変わった人ではないのか.話し手はそのエピソードをおもしろおかしくまとめて話す実力もあるのでその程度にもよりますが.「大勢の前で話すことができる」という立場的な力もあります.「変わった人に出会える」というのも一つの実力かもしれません.でも,そのおもしろさのコアの部分は,やはり変わった人にある気がしてもやもやします.
もちろん,変な人と出会ったのをきっかけにして色々考察とか妄想してって話なら話者の実力だと思います.あと「おもしろい人だと思ってもらうこと」ではなく「おもしろい話をすること」が目的であるなら何でもいいです.
おしゃれさんの実力はこれいかに.
おしゃれな服を着てておしゃれなのは,その服のデザイナーではないのか.あるいはセレクトして売った人ではないのか.場も含めた組み合わせがおしゃれなのかもしれませんが,それでもほとんどはデザイナーのおしゃれさを我が物顔で身にまとってるだけなのではないのか.
おしゃれなお店を知っていたところでおしゃれなのは自分じゃなくてお店だし,おしゃれな音楽を聴いていたところでおしゃれなのはその曲を作って演奏してる人です.あるいはそれらを自分に知らしめた情報源です.
またカテゴライズによる勘違いもあるように思います.
本来カテゴライズというのは,先に何らかの特性があって,その特性によって分類されるものです.でも先に自分をカテゴライズして,そのカテゴリの特性を身にまとってる人がたくさんいます.学歴とかわかりやすいかもしれません.「スポーツやってたから」とか,「トマトが嫌いだから」とか,「おれたちは難あるから」とか,そういうの,楽しいけど,甘えなんです.いや甘えたらええがな.
今までの話と矛盾するかもしれませんが,僕は「運も実力のうち」を認めています.結果が全てだというのもありますが,主な理由はこれを認めた方が「嫉妬」や「ひがみ」のような下らない感情を持たずに済むからです.「運も実力のうち」という言葉が浮かぶのって,だいたい「そんなん運良かっただけやないか」と思いたいときですので.
さぁ.横流しすること,享受すること,所属すること,どこにも僕の実力はないのではないか.
一応僕は強くなりたいんです.漠然と,上位にありたいと思っています.僕より強くない人が僕より強いふりをしてると腹立つんです.
特定の何かで強くなってもその何かにしか使えませんが,人として強ければ何をしても強いから強いんです.僕はまだ強くない.家のベッドに寝転んでから落ちるまでの束の間,そこには何者でもない僕が独り浮き彫りになっていて,どうにも虚しくなるんです.虚しくなるというか,虚しいっちゃ虚しい? う~ん,過去に,そういう感じで,虚しくなったことがある.
孤独空間においても実感できるような,他者との比較に拠らない「絶対的な実力」ってあるんでしょうか.なんかもうめんどくさいのでそんな無い理想に漠然と憧れるのやめたいです.漫画読んでる方が楽しいです.それにあまり深く考えると死ぬしか選択肢が無くなるパターンが多いので,今日はここらで終わりにします.
寝癖
どうも,たけです.
ん?寝癖ついてるって? ああ,そうなんです.寝癖,直してないんです.正確には言えば,寝癖を完全には直してないんです.
僕は現在大学院1年生で,基本的に研究室と家とを往復するだけの生活をしています.所属する専攻の女子率は5%程度で,今のキャンパスの周りには山しかなくサークル活動などもありません.1年通って,僕は気がついたんです.
「あれ,寝癖直す必要なくない?」
いったい僕は誰にかっこよく見てもらいたくて寝癖を直していたのか.あまりに無駄,恥ずかしいくらいです.院生にもなって,研究しに行くのに,未だに見た目を飾るのに時間,脳を使ってるなんてかっこ悪いったらありゃしまへんで.
こうして僕の「寝癖直さない生活」が始まって早2週間が経ちました.朝の手間が一つ減り,登校時間は早くなり,デトックスしたような晴れやかな気持ちで生活できるかに思われたのですが,再び僕は気がついたんです.
「 "いい感じの寝癖” になってるか,めっちゃ気になる・・・!」
「つい "いい感じの寝癖” にしようとアレンジを試みてしまう・・・!」
寝癖を直してた時よりもはるかに強く寝癖に心奪われてました.僕は寝癖を気にしないことにしたつもりが,実は「この人は私が支えてあげないとダメなんだと思わせるようなだらしなくもそこがなんともかっこいい寝癖」をごりごりに目指していたのでした.人目とかめちゃめちゃ気にしてますし,トイレで鏡見たときに寝癖がまじでただの寝癖だと普通に後悔します.もっと母性本能をくすぐるアンニュイな寝癖に落ち着いてはくれないものか.
「かっこ悪くても気にしない」というのは気にしてる人の思考です.本当に気にしない人はそもそも「かっこ悪い」という概念に思い至ることはなく,わざわざ気にしない必要がないからです.
僕は「かっこつけるのはかっこよくない」派なので,かっこつけないことでかっこつけようとするのですが,それってかっこつけてますよね.この派閥の人間が真にかっこよくなるためには少なくとも「かっこつけるという概念」を,さらには「かっこよさという概念」さえも忘れる必要があります.無関心の果てに真のかっこよさがあるのです.むずかしいっ!
寝癖なんてほっとけという理性と,それでも気にしてしまう感性と.
直すか直すまいか.僕はこれからどうすればいいのだろうか.このままでは直さずに且つ気にする生活を続けることになります.自力での解決が困難となれば専門家に頼る他なし.今度散髪に行った時は「いい感じに寝癖がつくようにお願いします.」と注文することにします.
しかし理性が言う.
「美容院に行って髪の毛整えて何になる? その時間とお金でもっと有意義なことができるだろう.いっそのこと坊主にすれば楽ではないか.かっこつけない人間ならそうするよ?」
そして感性が苦しむ.
「僕は・・・僕はそれをっ! 捨てられないっ・・・!!」