謙虚論
どうも,たけです.
お腹いっぱいで満足したと思っても,数時間経てばまたお腹減るのに,それでもめげずにまた食べるのって,不屈!
最近の記事の内容が実力がどうとか偉そうなのがどうとかなので,流れがきています.僕がよく考察してきた「謙虚論」について書こうと思います.
はじめに
「謙虚であれ」というようなことをよく聞きます.僕も漠然と「謙虚とは優れた性質である」と,そして「謙虚であるべきだ」と思っていました.ところが「あなたは謙虚ですか?」と自問した時に僕は謙虚という概念の難しさに気がついたのです.
- 「はい.謙虚です.」と答えた場合,自分が謙虚という優れた性質を持っていることを主張しているので謙虚っぽくない.
- 「いいえ,謙虚ではありません.」と答えた場合,謙虚という優れた性質を否定するので謙虚っぽいが,発言内容と矛盾している.
というように,どちらで答えても変な感じになります.謙虚が優れた性質であると仮定すると、一筋縄にはいきません.
ということで,
- 謙虚とはなにか
- 謙虚であるべきか
というようなことを考えてきました.
謙虚とは何か
まず,謙虚とされる行動として「謙遜」があります.他人に褒められた時なんかにへりくだるあれですが,謙遜してもへりくだれないと思うんです.謙遜することで評価が上がる世界では謙遜の意図と実際の効果が逆になっているからです.
本気でへりくだるのであれば本気で自己評価を下げに行くべきで,なんなら褒められたときは「まぁね」「天才やからな」「え?この程度で?」とか調子に乗った方が印象悪くなって自己評価を下げられるので,結果としてはむしろ謙遜を達成できるかもしれません.自己評価を上げることを狙った謙遜は謙遜たり得ないんです.
では逆に,調子に乗るのはどうなのか.
調子乗ってたら,それは,やっぱ,謙虚じゃないでしょ.だって調子乗ってるし.
先ほど述べたような「真に謙遜するための戦略的調子乗り」をまじでやったとしても,そうやってある種の嘘をついて相手の印象を操作しようとするのは謙虚らしからぬ気がします.あえてそれに理由をつけるとすれば,もう「謙遜することは謙虚ではない」ことになっているので,「最終的に謙遜すること」を狙ったその戦略ももはや謙虚ではなくなっているからです.
はい.
つまり,「謙遜すること」も「調子に乗ること」も謙虚ではないです.
謙虚とは何か.僕の今のところの答えは「自己を過不足無く評価すること」です.
完璧に,過不足無く,ありのままの自分を,見積もって,それに見合った振舞いをする.This is 謙虚.もったいつけて言うほどのことではなかったかもしれませんが.
謙虚であるべきか
どうあるべきかは人生の目的によりますが,僕は謙虚の定義を見直しても引き続き謙虚であろうとしています.自己評価を高く見積もることも低く見積もることも,現実と食い違いがあれば正しい判断に繋がらずに損しそうだからです.それにわざわざへりくだる系の謙虚なふるまいって,嘘じゃないですか.嘘はよくないね.
「どこまでが自分の実力か」「何が先天的で何が後天的か」「自分の言動の意図は本当はどこにあったのか」「過去を美化しがちだが、その回想は本当か」など問うて、自分を知ろうとしています.それが何の役に立ってるのかはわかりませんが.
おわりに
書いてみるとわりと印象論.そして「態度としての謙虚」と「姿勢としての謙虚」とがごちゃごちゃしている.なるほどね.
はたまた、上記の議論の一切を無視して,謙虚とは「貪欲且つ懸命に成長を求める姿勢」と捉えてる自分もいるのであった.