古代都市ツボクラ

よく食べ よく眠り よく考える,難ある男二人の備忘録

客観視と個性 - たけ

どうも、たけです。

ざわに合わせてたけにします。

 

僕は高校生のときくらいに「客観視を極めたい」という気持ちが芽生えました。知らないうちに身についていた誰かの価値観で汚れたレンズを通してではなく、肉眼で世界を眺めたいですし、その上で都合のいい選択をしたいからです。網膜を通した時点で嘘になっているので心の眼を開かないといけないんですかね。

 

そういうわけで自分のあらゆる思考に対して「ほんとに?」「なんで?」と常に自問しています。そうすることでかなり「無意識の価値観」だったものを自覚したつもりでいます。そして自分の感覚というのはあくまで自分の好みがそうさせてるだけの空虚なものとなりました。

 

自分の考えは空虚なものであり、他人の考えもまた空虚なものなので、他人のことなら娯楽になることは受け取りますが面倒なところは無視します。空虚なことからわざわざネガティブなものを受け取るのは損だからです。そのように基本的には合理性による選択になります。客観視を志すことにより「無意識の価値観」が薄れ、様々な事柄を「自分で選択している」という感覚が強くなっており、それは自由の獲得だと思っています。選択肢が多い人が自由なのではなく、自分で選択している自覚と覚悟がある人こそが自由だと思うんです。

 

話が少し逸れました。一方で不安にも思います。先述のようにその選択は基本的に合理性によって行われます。実際の行動は感情に流されることも多いですが、あくまで「なるべくこうすべき」と思う選択肢は合理性で決まりがちです。最近、そうした考え方はアルゴリズムで代替可能なのではないかと思うようになりました。人工知能とかそういうので。これは無個性なんです。そもそもは究極の客観視だけが真実を見る方法だとしているので、無個性こそ求める境地ではあるのですが...。

 

客観視を極めたい気持ちに変わりはありません。物事をあるがままに見つめてみたいです。ただ、何かもっと自分の奥に潜む好みや生い立ちを背景とした、個性的な軸も持っていたいなぁと思います。個性的な人は魅力的だし、魅力的なものを作れそうだから。客観視に憧れるところが自分の軸なのかもしれませんが。

 

最後に。以前友人と話していて、こういった客観視や合理性が先に来る考え方は「理系的価値観」であるとする見方を知りました。この憧れもまた自分のいるフィールドから得た「無意識の価値観」だったのかもしれません。これも吐き出さないと。