古代都市ツボクラ

よく食べ よく眠り よく考える,難ある男二人の備忘録

迷惑のシーソー

どうも,たけです.

10か月ぶりの更新でございます.

 

人の行動が自分にとって不快な時に,それを相手にやめさせることの正当性について思うことがあります.

 

例えば,貧乏ゆすりがひどいAさんがいたとして,BさんがAさんに「貧乏ゆすりをやめてほしい」と頼むことの正当性はどのように説明されるのか.これは,一見すると「Aさんが迷惑をかけていて,Bさんは迷惑をかけられている」という構図になります.しかし,もし「Aさんが貧乏ゆすりをやめるための負荷」が「BさんがAさんの貧乏ゆすりによって受ける負荷」より大きかった場合,貧乏ゆすりをやめさせることでBがAに迷惑をかけることにはならないのか?それは正当なのか?

 

極端な話,「殴る・殴られる」なんかに置き換えても同じことが言えます.「どうであれ殴ったらそれはAが悪いんじゃ」と決めることで秩序を守るのが法律やモラルだと思いますし,それはそれでいいと思いますが,そういう社会的なものに染まらない絶対的な見方においては加害者と被害者を明確に分けることは難しいのではないか.せいぜい能動的か受動的かの区別しかできないのではないか.

 

何が言いたいかというと,迷惑が発生しているとき,「受動側」が「能動側」に対して「無条件に優位である」という感覚が自分の中にも刷り込まれている気がするので,吐き出していきたいということです.受動側が能動側に要求を出すことで立場が逆転するかもしれない.実際はシーソーのような構造になっていて,たまたま先にどちらかに傾いただけではないのか.だとすると,受動側というだけで偉そうにしてる人はださくはないか?

やられたらやりかえしていいという感覚がこわい.