古代都市ツボクラ

よく食べ よく眠り よく考える,難ある男二人の備忘録

悟りと詩と微分方程式

どうも、たけです。お久しぶりです。

 

テッド・チャンの「あなたの人生の物語」という短編を読みました。非常におもしろかったです。ここに出てくるいろいろが、自分が主にサリンジャー作品に影響を受けて考えてたいろいろに通ずるものがあり、いくらか考えがまとまったので書きます。読んでなくてもわかるように書くつもりです。

 

サリンジャーのグラース家にまつわる作品に登場するシーモアという人物は宗教的に高度な人です。また、「テディ」という短編に出てくる少年もそんな感じです。彼らは過去や未来について多くのことを知っており、僕はどうして彼らにそんなことができるのか考えた結果、微分方程式のイメージで認識しています(的外れかもしれませんが)。

例えば、我々は宙を飛んでる野球ボールを見れば、そのボールが大体どこから投げ出され、その後どういう軌道を描くのかだいたい想像することができます。この想像を物理学的にやる場合は、まずボールの運動を支配する法則である運動方程式を導きます。これは微分方程式の形で記述されます。次に、その微分方程式に「ある状態(初期値)」を代入します。この「ある状態」というのはこの例では「ボールのある瞬間の状態」で、具体的には「ある時刻の位置と速度」です。あとは微分方程式に基づいて前後のボールの状態が全て計算できます。つまり、ある瞬間の状態さえわかればその過去と未来がわかる、ということです。その予測の精度というのは微分方程式の精度によります。例えば空気抵抗やボールの縫い目を考慮することで精度が上がります。天気予報はこういうことをやっています。とにかく、要するに、「微分方程式」と「ある瞬間の状態」が明らかになれば、その過去と未来がわかるんです。

野球ボールの例で言えば、野球選手は豊富な経験によりこの微分方程式を「会得」することでより高精度な予測を立てられていると言えます。シーモアが過去や未来について詳しいことについても、同じことなのかもしれません。この世界に関する微分方程式を「会得」したことで、ある瞬間の状態を知るだけでその過去と未来が見通せるというわけです。宗教については詳しくありませんが、「悟る」というのは「微分方程式を会得すること」だったりするのかもと妄想します。

 

次に、詩の話。

シーモアは「本当の詩人」であるそうです。これはシーモアが宗教的に高度であることと強く関連している風です。シーモアには詩的に世界が見えていて、また、シーモアには詩を通じて大事な全てを伝えることができます。詩といえば、僕は最近ツイッターで短歌を眺めるのが楽しいのですが、優れた短歌というのは三十一文字を超えた広がりがあり、その情景や文脈が強く想起されます。俳句なんかはもっと字数が少ないですよね。詩のこのような機能についても、微分方程式の例えで考えられないでしょうか。

単にある状態を写実的に伝えるだけのものはあまり詩っぽくありません。一方で、読者の想像をかきたて、その前後の文脈すらも伝えることができる詩というのは「ある瞬間の状態」だけでなく「微分方程式」を内包しているのではないでしょうか。詩が微分方程式ごと与えているのか、各読者が自身の持つ微分方程式に代入しているのかはわかりませんが、いずれにせよ詩というのは微分方程式を駆動させる力を持つもののことなのかもしれません。

 

微分方程式を使って例えることで、いろいろうまく繋った気がしています。例えることわかりやすくなることもあれば、誤解の元でもあるので気を付けたいですが。