古代都市ツボクラ

よく食べ よく眠り よく考える,難ある男二人の備忘録

洗練美

どうも、たけです。

どうやら僕が焦がれているのは「洗練美」のようです。

 

僕はこれをうまく言い表すことができていませんでした。それは「機能美」という言葉を使って説明しようとしていたことに無理があったからです。機能美というのは「機能性を求めた結果美が宿る」てきなことだと思います。しかしそれだと意味が狭すぎます。デザインや工学にとどまる話ではなく、あらゆるものが機能追求の対象になるからです。その機能追求が「洗練」です。

 

なぜ「洗練」に惹かれるか。

 

僕は何事も「目的的であるべき」と考えています。ある目的を定め、その目的がどれだけ達成されているかが数少ない正当な評価軸の一つです。

例えば、客観視を繰り返していくとあらゆる基準から離れることになり、何をも評価できなくなります。「なぜ?」を繰り返すと虚無に行きつくあれです。その中で何かを行うためには「目的」を設定する必要があります。目的を設定することで初めてその行いが意味を持ち得ると言えます。つまり「目的達成のためにどれだけ洗練されているか」だけが意味のある評価軸です。

 

別の例でも考えてみます。あるベクトルがあったときに、座標軸を設定しなければそのベクトルの向きは定まりません。宇宙空間に向きがないのと同じ話です。しかし、そのベクトルの大きさを見ることはできます。なので絶対的な視点ではベクトルの向きに意味はなく、ベクトルの大きさだけに意味があります。このベクトルの大きさが「洗練度」になります。「強さ」とも言えますが、ここでは「洗練度」でくくらせてください。

先の「目的的」の例では「目的に対する洗練度」の話でしたが、このベクトルの例ではもう少し漠然とした「洗練度」になります。

 

以上のように、僕にとっては青いか赤いかは重要ではなく、青いならどのくらい青いのか、赤いならどのくらい赤いのかが重要です。ですので「それがどのくらい洗練されているか」に注目することになります。

芸術、工学、スポーツ、お笑い、悪、人間...なんでもいいです。圧倒的に洗練されたものを目の当たりにした時の心震えるあの感じ。それを美とするのであれば、僕が焦がれているそれを「洗練美」と呼ぶのがわかりやすい。対象も目的もなんでもありです。例えば「めちゃめちゃ普通の人がめちゃめちゃ普通であること」にも洗練美は宿り得ます。

 

今日やっと、浮いていた概念が自分の腹に落ち、視界の透明度が少し増し、僕が洗練されました。僕が天職を全うすることに憧れているのもそういうあれです。そのための努力は全然なっちゃいませんが。