古代都市ツボクラ

よく食べ よく眠り よく考える,難ある男二人の備忘録

テレビに映ったとして

どうも,たけです.

あらゆる批判は「別に良くない??」で解決する説を僕は支持し,あらゆる批判を僕は批判します.

 

少し前のことですが,大学の卒業式がありました.その様子が夕方のニュースで取り上げられたりするので,僕の母親はそれらを録画して,僕や母が知ってる僕の友人らが映ってないか見返したりします.そんなに映ってなかったみたいなんですけど,それって,映ってたとして,いったい何が嬉しいんでしょう? その日からわりとそういうテーマで考え事してて,落ち着いてきたので,書きます.

 

別に何らかの能力に注目されてテレビで取り上げられ,それによりその後の仕事が増えるとかならわかりますが,ただ偶然画面に映るだけじゃないですか.ただの色彩ですよ.卒業式に限らず,何かしらでテレビに映りこむとか,たまたまインタビュー受けるとか,そういう「庶民として」「名もなく」「自分でなければならぬ特別な理由なく」「内輪以外には何の印象も与えない」「その後数秒で忘れられる」「というかそもそも記憶されない」テレビ出演に,何の価値もないじゃないですか.目立ってすらない.
いや,映ってたら嬉しいのは別にわかるんです.わかるんですけど,その嬉しさを説明できないというか,冷静に考えたら何の得もないしそんな気にさせられてるだけで本当は何もうれしくないのでは?

 

(というかもうあらゆる感情は気のせいなんじゃないかと思ってるのですが,その話は今回は置いておきます.)

 

これは僕が「内輪ネタ」を「これは内輪ネタだから僕たちにとってだけおもしろいことであって本当はおもしろくないんだぞ」と自覚したいことの延長なのかもしれませんし,実力の在り処の話の延長なのかもしれません.というか今日書いてる疑問が先にあって実力の話になった気もする.

気づいてますか?冷静に考えてもおもしろいことだけがおもしろいんです.

 

他にも,テレビに知ってる場所が映ったとか,それが,いったい,なんだというんだ.
テレビでよくやってる懐かしい曲特集とかアニメ特集(ランキング?)とかって,「きっとあれ出るな」って待ちわびながら「お,ほらきた」って思いたい気持ちだけで見てる場合が多いと思うんですけど,それも意味わかんなくなくなくない?YouTubeで好きなだけ見なよ.そんなことして承認欲求を満たそうとしてるのかい?

 

うむ.
まぁ,実際,僕がその立場になれば普通に何かしらの感情が湧いちゃう気もします.意味わからんけど.でも他人がそうなってるのを見ると疑問抱くし,それがいかにも庶民的だから自分はそうならないでおこうと思うんです.そうやって僕はわざわざ自分の行動を制限するも,案の定その通りになって嫌な気持ちになるのでしょう.「嫌な予感というのは期待でもある」ので,そうやって嫌な気持ちになることが僕の庶民性を否定してくれてると勘違いしてるのかもしれません.そしてこうやって「俯瞰できたからこその苦しみ」みたいなことを悦に語るのはなかなかキモい.でもそのキモさを自覚できてることは褒めてあげたい.でもそうやって結局自分を褒めるところもまたキモい,というような無限ループを毎日毎日回してる方が,よっぽど意味わからないのかもしれませんが.

 

思うに,これらはそういうゲーム.思考遊びなのでやんす.知的なことで.