古代都市ツボクラ

よく食べ よく眠り よく考える,難ある男二人の備忘録

ドモホルンリンクル-ざわ

大学でフットサルをしていた頃、奇妙な関係な人がいたのでその人の話をしたい。


僕はフットサルをしてた頃今はやめてしまったツイッターをやってた。そこでフットサルや筋トレで分からない事を呟いていた。「体幹トレーニングって意味あんのかな?体幹使えてない人間が体幹鍛えても意味ないし、体幹使うためのトレーニングも大切じゃない?」とかそんな感じの内容である。

するとドモホルンリンクルというアカウント名の人がその疑問に対してアドバイスや答えを良くくれた。


その人の僕への話し方などを見るとどうやら彼は僕を知ってるみたいだったが、僕は彼が誰だか知らない。そして彼は彼が誰なのか僕に知られたがっていなかった。僕も僕で彼の正体を探ることはルール違反のような気がしたし、相手を知らないという神秘性を気に入っていたので、その正体を余り探ろうとはしなかった。


ツイッターを辞めてしまった今、その中の人と偶々話をする事があったとしても、ドモホルンリンクルというアカウントに僕はもう話をする方法はない。彼が結局誰なのか今でも分からないままだ。そして彼との秘密の関係をここに書いた今、彼が誰か確信する方法も大きく失われた。

儀礼

どうも、たけです。

鳥は人インフルエンザって呼んでるらしいです。

 

最近儀礼を無視する感覚が一線を超えつつあります。

例えば僕は自宅に住んでいるのですが、いつの間にか家族に「おやすみなさい」を言わなくなりました。昔はそういうのちゃんとするように教育されてたのですが。食事中にスマホをいじるのも平気になりました。単身赴任中の父親が自宅に帰ってきていて、再び赴任先へ戻るときのお見送りも昔は早起きしてみんなで見送ってましたが、今はそんなことせずに寝てます。

 

この前学会で札幌に行ったとき、周りの人は「せっかく札幌に来たんだから美味しいものを食べよう!」という勢いで、僕も最初はそんな感じでした。しかしだんだん「別に遠くに来たからっておいしいもの食べる必要ないな」って思っちゃてそうしました。僕の財力でちょっと贅沢して食べれる程度のおいしい海鮮は既に知っていますし、別に精神的回復が必要な状態でもなかったので。

 

ほとんど家と研究室にしかいないということもありますが、ハロウィンや誕生日やクリスマスとかも特に気にせず、研究室の忘年会も理由なく欠席し、カウントダウンもせず、「あけましておめでとう」もおととい人に言われて初めて言った気がするような、季節感のない日々です。

 

服装や寝癖なんかへの関心が薄れてるのも同じ話かもしれません。最近自分のそういう無関心な態度の程度が拡大していることに気がついて少し不安になっています。こうやって僕が生産性が低いからとか興味がないからという理由で様々な儀礼やイベントを無視してると、そのうち寂しくなった頃には儀礼やイベントから無視されるんじゃないかと思います。友達からの誘いを断ってるうちに誘われすらしなくなるような、そんな寂しさ。

 

平坦で季節のない生活はやはり彩りを欠くでしょうから、日々の儀礼やイベントをもう少し大切にしようと思わなくもないです。一方で、興味のないことは無理に気にせず、自分のやるべきことだけに集中した先にある非凡な世界の方が重要な気もしています。

 

追記

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おもしろさの考察 その5 -組み合わせ-

どうも、たけです。

「親切」を「おやぎり」って読むと急にこわいですね。

 

その場に似つかわしくないものを持ち出すとおもしろくなりがちではありますが、僕は場違いなだけのものと本当におもしろいものとを区別したいです。

 

その組み合わせが単に足し算や掛け算の場合はイマイチです。組み合わせることで新たな軸が発生する必要があると思います。組み合わせをA×Bと書いたりしますが、言うなれば、この時の「×」は掛け算ではなく「ベクトルの外積」であるべきです。

 

例えば、年末にガキ使の「笑ってはいけない...」を見てて改めて思いましたが、大御所芸能人が若手芸人のネタをただコピーするようなのは掛け算の次元です。大御所芸能人が若手芸人のネタを土台に自分の個性を踏まえて改変すれば若干新しい軸が生じます。さらにそこに「その組み合わせだからこそ生じるおもしろさ」「その組み合わせであるべき必然性」みたいなものがあるとおもしろみが出てくると思います。

 

「こんなものでこれを作りました」とか「こんな場所でこんなことしちゃいました」とか「ここにこんなの置いてみました」とか「こんなものを大量に用意しました」みたいな、そういう「場違い」なだけのものは、おかしいかもしれないけれど、おもしろくないような、気が、します。

プラットフォームと希少価値

どうも、たけです。

昨日、好きなおかずは早めに食べないと冷めて美味しさが半減するので先に食べた方がいいことを人類で初めて見出しました。

 

プラットフォームが進化するとそれに伴って様々なものが出てきます。

例えばtwitterにgif動画を載せられるようになってコンテンツの幅は広がりました。詳細を開かなくても画像が表示されるようになったり、サムネイルでリンク先が表示されるようになったり、こういったプラットフォームの進化がコンテンツを変えています。最近は140秒くらいの長い動画も載せられるようになって、テレビ番組の一場面を切り取ったものなど長いコンテンツが拡散されるようになったのをよく見ます。まとめサイトと似てるかもしれませんが、著作権どうこうは置いとくとして、数ある中のほんの2分間を切り取ったわけですから、そらおもしろいでしょう。また、最近はさらに元の動画を早送りして140秒に収めたものもあり、こうやっていいとこ取りして凝縮までされたものが身近なSNSに溢れていくのかと感心しました。

 

また別の例として、僕はものづくり界隈に脚を突っ込んでいるのですが、そこでもプラットフォームの進化はすごいです。例えば3Dプリンタや便利なプログラミングツール、他人の作ったプログラムを簡単に使えるオープンソースプラットフォームなどがどんどん進化しています。すると「一昔前は難しいとされていたもの」も簡単に実現可能になっています。

 

プラットフォームの進化により今までできなかったことができるようになるのは楽しいですが、競争することを考えると底上げされただけで相対的な立ち位置は変わらない気がします。むしろ裾野が広がり入れ替わりが激しくなった分だけ厳しくなった。

僕は希少価値をかなり重く見ています。おもしろいものがたくさん出てきたり、簡単にすごげなものが作れるようになっても、もはやそれが出来ることに希少価値はありません。「(一昔前の)すごいことが簡単にできるようになった」と喜んでる場合ではなく、「もっとすごいことをしないと目立てなくなった」ということです。デジタルネイティブとか言いますが、そういう各プラットフォームネイティブが続々と現れてくる中で闘うの、修羅修羅しいですね。

 

はたまた、価値は全てプラットフォームを提供した側が待っている気がしてならないです。便利なツールを駆使して何か創作しても、その便利なツールが便利なおかげがしてなりません。

自動車教習所で聞いた「車の能力を自分の能力と思いがち」という講師の言葉が印象に残っています。プラットフォームやツールによらないパンチ力を身に付けたいです。

 

一つの種が地面に落ちた。その種は根を張り、青々とした二つの葉をつけた。太陽の日差しをめいっぱい受けてたくさんの栄養を蓄えた。その栄養をもとにしてその幼い木は背丈を伸ばし、根をより深く張った。

 

幼い木はくる日もくる日も同じように栄養を蓄え、成長を繰り返し毎日少しずつ違う景色を楽しみに過ごしていた。

 

ある日その幼い木はなにかひんやりした肌触りの良いものが根に触れるのを感じた。ガラスのビー玉を見つけたのだった。幼い木はビー玉の感触を気に入り、ビー玉を包み込むように根を育てていった。毎日変わらずひんやりと心地よい感触を与えてくれるビー玉の方を幼い木は好きになっていき、時に暖かくやさしい日差しを、時に激しく辛い嵐を見せる外の世界に興味を失っていった。

 

それから何年も経ち、その幼い木は幼いという形容詞が似合わなくなるほど立派な木に成長していた。大きな嵐がその木を襲い、いつもより大きな嵐にその木はあっけなく倒れてしまった。露わになったその根は立派な幹に似合わないほど浅い根をしていた。根は大事そうにビー玉を抱えていた。木は光を受けたビー玉がキラキラと美しく輝くのを見て嬉しそうに葉をざわつかせた後、その命を終えた。

エゴイスト

どうも、たけです。

無駄なことさせられたって怒る労力すごい無駄。

 

つくづく自分はエゴイストだなぁと思うことが増えました。かつては自分を甘やかさないために構築した理屈を、最近は自分を甘やかすために使いがちです。優しい人は「そんなこと言ったらみんなエゴイストだよ」と言ってくれるかもしれませんが、僕はエゴイストなので他の人がどうとかどうでもいいです。

 

例えば自分がちょっと良いことをしたり人にやさしくした時に「まぁでもこれはたまたま自分がやりたくてやってるだけだから」と思うことで調子に乗らないようにしています。でも最近は人に何かしてもらった時にも「その人がそうしたかっただけだから」と思うので感謝の気持ちがなくなってきました。

また自分が何か望んでないことをせざるを得ない時には「望んでないことをするデメリットとしなかった時のデメリット、それを乗り越えたときに得られるメリットとを比較してメリットが勝ったからするのであって、結局自分のしたいようにしてることには変わりない。」と思うことで悲劇を気取らないようにしています。それが最近は他人に何かお願いしたり嫌な目に合わせてしまった時にも「嫌ならやらなきゃいいし無視すればいい。結局受け入れる方のメリットを取ってるわけですよね?」みたいに思ってしまいがちです。ハラスメントやん。

 

基本的に僕は肯定と否定どちらともとか、できるだけいろんな視点から物事を見ようとしています。それは自分の思い込みや好みに惑わされずにありのままを見るためであったり、「人のふり見て我がふり直せ」的に自分の成長に活かすためです。でも今では多角的に見ることで自分に都合のいい要素だけを採用してることが多い気がします。また「人のふり見て我がふり直せ」と「過去と他人は変えられない」が同居しているため、他人をどうこうする気はなく反面教師の道具としてだけ捉えてるフシもあるっぽいです。他人の失敗は脳内で突くけど自分の失敗は「まあそんなこともあるよね」と思うのもタチが悪い。我がふり見て我がふり直さず。

 

身近な人間の幸不幸に対する興味もどんどん薄くなっています。自分を観察してるとどうもやはり自分はどこか他人を見下していて「自分は特別だからそのために他人が犠牲になることは問題ない」という感覚が存在している気がします。僕は「『人をバカだと思うこと』と『人をバカにすること』とは違う」と思っていますが、こう思うに至ってることがなかなか痛々しいです。僕は実行できているかは別として「自分の能力の最大化」というテーマを持っていますが、そういう自己中心的な向上心が悪い影響を与えているのかもしれません。

一方、こうなってしまったものは仕方ないですし、漫画とかでもそういう唯我独尊な主人公が活躍することもあると思うので、性格の悪さをうまく活かせられたらいいなぁとも思います。また自分の「いい人なところ」とこの辺がどう共存してるのかにも興味があるのでまた考察していきたいです。

隠す側と見つける側

どうも、たけです。

悪意がなければいいやって感覚があるのですが、悪意がある場合も悪意があって悪意があるわけじゃないと思うと別にいい気がしてきました。

 

おもしろさの考察シリーズ その4です。

 

僕は「おもしろいな」と思ったときに「おもしろいとして、すごいのか、すごくないのか」ということを評価しようとしがちです。「すごくはないけどおもしろい」が存在するのは確かだと思いますが、「おもしろいと思ったけどちゃんと考えたらすごくはないし、なんならおもしろくもない」ということが多々あるように思います。僕はそういうのを区別したい人です。自分も何かおもしろいことをしたいと思っている場合にはそういった分析は糧になると思っていますし、作品のおもしろさとは別に作者のおもしろさを測る材料になります。

 

例えば曲の歌詞を読み込んで、これは実はこんな意味なんじゃないか、この単語は実は何々のことで...、とか解釈して「すごーい」「深ーい」みたいなのがあるとして、それって本当にすごくて深いんでしょうか。歌詞に隠喩で何らかの意味を込めるのと、それを解釈するのとでは、前者の難易度の方が低いと思います。領域が広大な場合は隠す方が見つけるよりも簡単なので。解釈するのに手間がかかったことで暗喩の価値を買い被ってやいませんか。

 

同じようなもので、物語のいわゆる「伏線」の中にもただ隠してるだけのものがあるように思います。ただ後出ししてるだけのことにおもしろさを見出すのもなんだか不思議なものです。謎を残したままの作品とかもありますが、それはどれほど深いのでしょうか。隠しただけやん。

 

他にも、キャラの裏設定や作者のこだわりなど、後から聴くと何やらすごいことのように思えても、実際には教科書的な行為であったりただの遊びだったりして、実はそんなにすごくないこともあると思います。

 

その婉曲表現に意義なり趣なりがあるならいいのですが、ただ遠回しに隠しただけのものを深読みして凄さを感じるのは勘違いな気がします。たいした内容もないのに、大げさな表現を使うことで理解にちょっと手間をかけさせて、ほら深いでしょって言いたげなものが散見されますが、深くないです。知らんけど。