古代都市ツボクラ

よく食べ よく眠り よく考える,難ある男二人の備忘録

一つの種が地面に落ちた。その種は根を張り、青々とした二つの葉をつけた。太陽の日差しをめいっぱい受けてたくさんの栄養を蓄えた。その栄養をもとにしてその幼い木は背丈を伸ばし、根をより深く張った。

 

幼い木はくる日もくる日も同じように栄養を蓄え、成長を繰り返し毎日少しずつ違う景色を楽しみに過ごしていた。

 

ある日その幼い木はなにかひんやりした肌触りの良いものが根に触れるのを感じた。ガラスのビー玉を見つけたのだった。幼い木はビー玉の感触を気に入り、ビー玉を包み込むように根を育てていった。毎日変わらずひんやりと心地よい感触を与えてくれるビー玉の方を幼い木は好きになっていき、時に暖かくやさしい日差しを、時に激しく辛い嵐を見せる外の世界に興味を失っていった。

 

それから何年も経ち、その幼い木は幼いという形容詞が似合わなくなるほど立派な木に成長していた。大きな嵐がその木を襲い、いつもより大きな嵐にその木はあっけなく倒れてしまった。露わになったその根は立派な幹に似合わないほど浅い根をしていた。根は大事そうにビー玉を抱えていた。木は光を受けたビー玉がキラキラと美しく輝くのを見て嬉しそうに葉をざわつかせた後、その命を終えた。

エゴイスト

どうも、たけもりです。

無駄なことさせられたって怒る労力すごい無駄。

 

つくづく自分はエゴイストだなぁと思うことが増えました。かつては自分を甘やかさないために構築した理屈を、最近は自分を甘やかすために使いがちです。優しい人は「そんなこと言ったらみんなエゴイストだよ」と言ってくれるかもしれませんが、僕はエゴイストなので他の人がどうとかどうでもいいです。

 

例えば自分がちょっと良いことをしたり人にやさしくした時に「まぁでもこれはたまたま自分がやりたくてやってるだけだから」と思うことで調子に乗らないようにしています。でも最近は人に何かしてもらった時にも「その人がそうしたかっただけだから」と思うので感謝の気持ちがなくなってきました。

また自分が何か望んでないことをせざるを得ない時には「望んでないことをするデメリットとしなかった時のデメリット、それを乗り越えたときに得られるメリットとを比較してメリットが勝ったからするのであって、結局自分のしたいようにしてることには変わりない。」と思うことで悲劇を気取らないようにしています。それが最近は他人に何かお願いしたり嫌な目に合わせてしまった時にも「嫌ならやらなきゃいいし無視すればいい。結局受け入れる方のメリットを取ってるわけですよね?」みたいに思ってしまいがちです。ハラスメントやん。

 

基本的に僕は肯定と否定どちらともとか、できるだけいろんな視点から物事を見ようとしています。それは自分の思い込みや好みに惑わされずにありのままを見るためであったり、「人のふり見て我がふり直せ」的に自分の成長に活かすためです。でも今では多角的に見ることで自分に都合のいい要素だけを採用してることが多い気がします。また「人のふり見て我がふり直せ」と「過去と他人は変えられない」が同居しているため、他人をどうこうする気はなく反面教師の道具としてだけ捉えてるフシもあるっぽいです。他人の失敗は脳内で突くけど自分の失敗は「まあそんなこともあるよね」と思うのもタチが悪い。我がふり見て我がふり直さず。

 

身近な人間の幸不幸に対する興味もどんどん薄くなっています。自分を観察してるとどうもやはり自分はどこか他人を見下していて「自分は特別だからそのために他人が犠牲になることは問題ない」という感覚が存在している気がします。僕は「『人をバカだと思うこと』と『人をバカにすること』とは違う」と思っていますが、こう思うに至ってることがなかなか痛々しいです。僕は実行できているかは別として「自分の能力の最大化」というテーマを持っていますが、そういう自己中心的な向上心が悪い影響を与えているのかもしれません。

一方、こうなってしまったものは仕方ないですし、漫画とかでもそういう唯我独尊な主人公が活躍することもあると思うので、性格の悪さをうまく活かせられたらいいなぁとも思います。また自分の「いい人なところ」とこの辺がどう共存してるのかにも興味があるのでまた考察していきたいです。

隠す側と見つける側

どうも、たけもりです。

悪意がなければいいやって感覚があるのですが、悪意がある場合も悪意があって悪意があるわけじゃないと思うと別にいい気がしてきました。

 

おもしろさの考察シリーズ その4です。

 

僕は「おもしろいな」と思ったときに「おもしろいとして、すごいのか、すごくないのか」ということを評価しようとしがちです。「すごくはないけどおもしろい」が存在するのは確かだと思いますが、「おもしろいと思ったけどちゃんと考えたらすごくはないし、なんならおもしろくもない」ということが多々あるように思います。僕はそういうのを区別したい人です。自分も何かおもしろいことをしたいと思っている場合にはそういった分析は糧になると思っていますし、作品のおもしろさとは別に作者のおもしろさを測る材料になります。

 

例えば曲の歌詞を読み込んで、これは実はこんな意味なんじゃないか、この単語は実は何々のことで...、とか解釈して「すごーい」「深ーい」みたいなのがあるとして、それって本当にすごくて深いんでしょうか。歌詞に隠喩で何らかの意味を込めるのと、それを解釈するのとでは、前者の難易度の方が低いと思います。領域が広大な場合は隠す方が見つけるよりも簡単なので。解釈するのに手間がかかったことで暗喩の価値を買い被ってやいませんか。

 

同じようなもので、物語のいわゆる「伏線」の中にもただ隠してるだけのものがあるように思います。ただ後出ししてるだけのことにおもしろさを見出すのもなんだか不思議なものです。謎を残したままの作品とかもありますが、それはどれほど深いのでしょうか。隠しただけやん。

 

他にも、キャラの裏設定や作者のこだわりなど、後から聴くと何やらすごいことのように思えても、実際には教科書的な行為であったりただの遊びだったりして、実はそんなにすごくないこともあると思います。

 

その婉曲表現に意義なり趣なりがあるならいいのですが、ただ遠回しに隠しただけのものを深読みして凄さを感じるのは勘違いな気がします。たいした内容もないのに、大げさな表現を使うことで理解にちょっと手間をかけさせて、ほら深いでしょって言いたげなものが散見されますが、深くないです。知らんけど。

本末転倒

どうも,たけもりです.

完璧な人生を志そうと思います.

 

僕は本末転倒とかジレンマとかパラドックスみたいなものを発見するのが好きです.だって,良かれと思ってやったら本末転倒ってちょーこわくないですか.

  • おしゃれ論で書いた「かっこつけることがかっこよくない」
  • マスメディア批判批判で書いた「メディアを批判することで閲覧数が増えるから逆に応援になる」
  • 失礼で書いた「失礼だと主張することが失礼を生む」

なんかも思い返せばそういう話でした.

 

こないだ考えたのは「ロマンチストであるが故に浮気を禁止する人のジレンマ」です.

「浮気したらめちゃめちゃ怒られるから浮気しません」よりも「浮気しても別に怒られないけど一途だから浮気しません」の方がロマンチックだと思います.ロマンチストな人がロマンチックな価値観が故に浮気の禁止を叫べば叫ぶほど,浮気しない原因はロマンチックなものではなくモラルや罰則への恐怖によるものになり,浮気されていないことの価値が下がるというジレンマです.

自分以外の人に時間やお金を使われるのが経済的に損失だから禁止する,とかならジレンマというか違和感はありません.

 

気を遣われると気を遣う とか.

馬鹿っていう方が馬鹿 とか.

無駄な時間使わされたって怒る時間すごく無駄 とか.

批判行為を批判する とか.

ジレンマというかパラドックスというか言葉遊びというか.

 

僕はできるだけ物事をちゃんと見て,こういった本末転倒やジレンマみたいなことを少なくとも自覚して,できれば自覚を活かして合理的でお得な行動をしたいと思っています.でも結局はそういう揚げ足取りが行動を制限し,僕は身動きが取れずにあちこちで損する本末転倒を引き起こしているのでしょう.

 

感情を抱くなり主張するなりすればきっと何かと衝突するのでしょうが,自分が矛盾を抱えることに寛容になりたいものです.

雑記

久しぶりにブログを書く気がする。ざわです。久しぶりなのでリハビリ感覚で書こうと思う。

 

浅井リョウの何者を読んで、シンゴジラを見て、博士課程進学が決まって、後なんかいろいろあった気がする。

何者は読んでよかった。冷笑的になりすぎて行動してなかった自分を見つめなおすいい機会だった。他人を批判するとどうしてもその批判基準が自分にも回ってくるから良くない。どうでもいい他人に対しては無関心でいようと思った。後今の自分はしょぼいのであがかないとな、とも思った。

シンゴジラはあんまりおもしろいと思えなかったのに周りでは人気でなんとなくもやもやした気分になった。新しく発見された元素のくせに半減期が日単位なのは不自然じゃない?後その作戦で倒せたならほかにもやりようあっただろ!とも思ってしまった。そういう視点で見る映画ではないんだろうけど、そういう視点で見てしまったから仕方ない。それとは関係なく、自分が面白くないと思ったものが周りで人気だとなんでもやっとするのかは面白いテーマなのでこれから考えていこうと思う。

博士課程進学、不安でいっぱい。大多数と違うことするのがこんなに怖いと思わなかった。就活すれば安心できる気がするけど、それは皆と同じ行動をするから得られるものであって、安定するから得られる安心ではない。自分の中では、根拠のない安心なので意味ない。多分。後22歳の段階で撤退を始めるとこの先の人生がすべて撤退戦になってしまう気がした。この先すべて撤退しきれるほど自分は積み上げてきていないので、もうちょっと戦おうと思う。後人生詰んでも面白いかなと思った。博士課程の方が詰みやすいのかどうか知らないけど。まあそんな感じで博士課程進学した。なんとなくなりそうな気はしてる。得体のしれない恐怖に襲われてしまっているけれども。

 

とりあえず人と話したい。自分の中で思い浮かんだあれこれが拾い上げられずに沈んでいく。本当に人と話したい。適切な人と適切な話題で。

今日はここまで。何個か書きたいネタがあったのでまたそのうちに。さようなら

ナルシズム論 その2 -誰のため-

どうも,たけもりです.

ぼくの全てを理解してほしいです.

 

ナルシズムは常に僕の判断を鈍らせようとしてきます.このシリーズでは僕が自己のナルシズムとの戦いの中で見つけてきた陶酔ポイントを発表します.

 

僕はみんな自分のためだけに生きればいいと思っていて,みんなが自分のためだけに生きた結果として調和が取れるのが理想だと思っています(というかそもそもみんな無意識的に自分のためにしか動けないと思ってます).自分のためというのはもちろん「あなたの幸せがわたしの幸せ」みたいなのも含めてです.

それとは別に「目的的か」という見方もあります.「目的的」というあれが僕は好きなんですが,これは雑念にとらわれずに目的達成をちゃんと指向してるか,というような意味合いで使っています.ナルシズムは雑念になりがちです.

 

例1.ボランティアは相手のためではなく自分がしたいからしてるんでしょ的な指摘は,目的的にはどうでもいいことです.僕はボランティアのことは全然知らないですが,ボランティアに求められているのはそんなナルシズムを自覚しているかどうかではなく仕事能力ではないでしょうか.

「相手のためにこうするのが自分のためだから」みたいなことになるわけですが,「相手のため」と設定した瞬間に「相手のためにと思ってる自分」とか「葛藤」とか,そんな自分が主役の感情はどうでもよくなるはずなんです.「相手のため」が目的なのにそこに自分を挟み込んでくるのはナルシズムによるものだと思います.それが悪いとは全く思いませんが.「相手のためになるのが自分のため」だとしてそのためには「自分のための成分」を限りなくゼロに近づける必要があるので結局「相手のため」だけが残るはずなんです.ナルシズムを自覚すること,どうにかしようとすることもまたナルシズムなんです.

少し話は逸れますが,純粋に相手のためだと信じ込んでる人に「それ自分のためやからな!」と知らしめたくなる気持ちは誰のため何のためのものなのでしょう.嫉妬でしょうか.ちなみに僕はこのブログを主にそういうエネルギーで書いています.

 

例2.あるアイドルグループが解散したがっているとして,解散するかもってニュースが流れたとします.そのときに「解散してほしくない.応援してる.」って言ってるファンがいたとします.違和感あり.応援してるとして,その人たちが解散したいと言ってるのに,解散しないでほしいって,矛盾してます.誰を応援しているのだろう.応援とか愛とかってあるべきは「全肯定」だと思うんです.相手を応援しているのか,自分の都合のいい行動を応援してるのか.ナルシズムが垣間見える.

 

僕は修行僧がひたすら仏像を彫り続けるような世界観にぼんやりとした憧れがあるので,いつか何らかの神のために何かできたらなぁとぼんやり思っています.

走る

どうも、たけもりです。

この世に仕方なくないことなんてあるのでしょうか。

 

最近、平均して2.5日に1回くらいのペースで走ってます。長く続かない気もするので調子がいい今のうちに「なぜ走るのか」「どう走るのか」について書きます。

 

僕は高校の時に陸上競技部で短距離をやってました。走るのが好きか嫌いかでいうとまあまあ好きくらいで、陸上競技をしてたというよりは部活をしていて、速く走ろうとしてたというよりは一生懸命走ろうとしてました。今も同じような感じで、達成感を得たくて走ってます。その日1日捗らなくても、とりあえず走って疲れれば達成感が得られるし何か成し遂げた気になれますから。

 

僕が磨くべき武器は走力ではないので、走るためには様々な言い訳が必要です。健康のためとかなんとか間接的な理由はいくらでも挙げられますが、最も磨くべき別の能力のための直接的な取り組みの時間を削っていい理由にはならないと思っています。が、もう走りたいんだから走らせてくれよと思って走ってみると、やはり良い。肉体がなんとなく引き締まると精神的にも引き締まるし、猫背も少し伸びる気がします。翌日にも少し残る疲労とか、洗濯された練習着とか、日々の中に連続的な何かがあるのは精神にいいです。このブログもそうですね。

 

内容としては約4kmのジョグと、180mくらいの坂ダッシュ3本。それぞれに変なこだわりがあります。

 

まずは4kmのジョグ。キャンパスをぐるっと2周するようなコースです。疲れたいけど長い距離はしんどいしそこまで時間かけるのもな、という4km。夜中なので誰もいませんが、キャンパスを走るのでもしかしたら知り合いに見られるかもしれないというワクワクのおかげで走る気になれます。誰もいないならいないで特別なことをしてる感じが気持ちいいです。

コツは最短経路を走ることを推奨すること。例えば本来直角に曲がるべきところを斜めに行くようなショートカットは許されています。それを許さないとちょっと気が緩んでショートカットしてしまった時に罪悪感が伴うわけで、達成感のためのトレーニングにそんなリスクは要らないので最初から許しておきます。またペースを上げることを要求してしまうと上げられない言い訳を考えながら走ることになるので遅くていいことにしています。走り切れさえすればいい。

 

さて、走る目的にはもう一つ大きな要素があります。それは「全力疾走できる人でありたい」というものです。運動しなくなって、ある時ふと「今全力で走ろうとしたらどっかちぎれるな」と思って寂しくなりました。また、高校時代に大会の決勝とか見てると、強い人って400m走の最後150mで1段ギアが上がって、残り80mでさらにもう1段上がってるように見えるんです。なんなんだあれは。僕はそんな風にリミッターを外せなかったなという未練と憧れみたいなのがまだあります。そこで坂ダッシュです。

3本というのは程よいです。1本目は元気なのでいけます。2本目の後半できつくなってきますが、もう走り始めてるのでなんとかなります。3本目はもう嫌になってるんですが、ラスト1本と思えばなんとかやれます。これが2本だとちょっと物足りないし、4本だと3本目できっと手を抜いてしまいます。精神力をあまり使わず且つ後悔せずにやり切れるのが3本です。

走ってる最中は様々な雑念をかき消そうとしながら「回せ回せ回せ回せ」と僕の中の武井壮と松岡修造が叫びます。僕はとにかく脚を回します。「一生懸命に」ではなく「速く」。とにかく今度こそギアを一番上にすることを目指します。

さらに、一つ重要なルールがあります。後半が坂になってる直線180mほどを走って、帰りは歩くんですが、歩いてスタート地点に着いたら即スタートすることです。「ためらわないこと」が重要だとしています。リミッターを外す上で最も邪魔なのが「ためらい」だからです。スタート地点に戻ってから「質を考えるともう少し休んだ方がいい」とかなんとか言い訳して休み始めるとそいつはもうダメです。とにかくためらわないこと。ひと息もつかないこと。即、走ること。これがこのメニューの肝です。知らんけど。

 

終わったらシャワーを浴びて、ほんの軽くストレッチ。ここでちゃんとあるべきストレッチをしようとするのは危険です。体にとってはやった方がいいんでしょうけど、ストレッチって伸ばす具合とか時間とか、妥協できるポイントが多すぎて、とてもそれを自分に課す気になれません。つい妥協しまくって嫌な気持ちになりたくない。

 

以上、こんな感じで終わりです。

 

僕はみんなで仲良く走るサークルに入っていて、そこの人たちはフルマラソンとか100kmマラソンとかけっこー出るんですけど、僕は出ません。きれいめの公式見解としては「怪我したくないから」「練習にそこまで時間を使うわけにはいかないから」ということにしてるんですが、ほんとは「マラソン完走すれば何か得られるんじゃないか」と期待してる自分がダサく見えてしまう不純な自意識が妨げています。ほんとは一回くらい出てみたいんですけど、「おれは走るためにだけ走る!」みたいな、「練習が常に本番!」みたいな、そういうことにしておきたいんです。

 

まぁ、単なる趣味のジョギング、それもたいした量でもたいした頻度でもないものなんですけど、僕はそれがあたかも信仰に基づいた高尚な修行であるかのような心持ちで臨んでいます。自分なりのテーマを持ってることでその辺のジョギングとは格が違うものだと主張しようとしてるんです。

走っている自分はかわいい。誰もいない夜のキャンパスで黙々と走ってる自分はとてもかわいい。僕はずっとそうでした。高校時代、家で自主練してて、そのことをチームメイトに話せば刺激になったかもしれないし、一緒にやろっていうのが高めあう関係だったのかもしれない。練習量やメニューを先生に相談すればより良いトレーニングができたかもしれない。でも僕は1人でやって外向きにははっきり言わず、そんな雰囲気だけ醸しだそうとしてました。文化祭前とかで全然人が来なくて最初1人で部活してたとき、誰かが遅れて来ると嬉しいはずなのに、僕はほんとは誰にも来てほしくなかった。そういう時に1人で頑張ってる自分がかわいくてしかたなかったんです。そういう、自分の嫌なナルシズムを、今何を考えて走ってるかをこのブログで公表することで少し脱却できればな、という、また別のナルシズムでした。

 

「続かなくてもいい」ということにしとかないと続かなかった時に嫌な気持ちになるので「続かなくてもいい」ということにしていますが、せっかくなので続けられたらいいなと思ってます。走ってる自分に対する様々な自意識を忘れられた時に、本当に全力疾走できたりするんでしょうかね。