古代都市ツボクラ

よく食べ よく眠り よく考える,難ある男二人の備忘録

by

ざわです。ブログをはじめてから結構時間がたつので変わった人しかもうこのブログを読んでいない気がする。

変わった人と言えば、かつて岡本太郎という人がいました。太陽の塔の作者の方で、「芸術は爆発だ」という名言を残した人でもあります。この芸術は爆発だという名言について思うところがあったので書き記します。

 

この芸術は爆発だという名言を僕が言ったとして同じ力を持っただろうかというのが今回の命題です。この名言はby岡本太郎というところにその名言たる所以があるのではないかなと思うのです。つまりこの発言はbyざわだと全く力を持たなさそうだなと。

byざわでも力を持たないならばこの言葉の名言性はby~の~によって担保されていることになり、この名言は名言を構成する言葉によって名言になっているわけではないことになります。なんかそれはつまらないなと思うのです。名言と称されるならばby以降がだれであっても名言であって欲しいですし、誰々が言ったから名言になるなら僕たちはその言葉の意味を真に理解できてない気がするのです。だってその発言の正当性を論理ではなく発言者に求めていることになるのですから。発言者が名言の価値を担保しているのが気に食わない理由は、似非科学批判批判の記事で書いたことに繋がるのかもしれません。でも今回は特に芸術関係なので、論理性が必ずしも求められるわけではなさそうです。ただこういう名言に感動した場合、何となくで感動しているんだなということだけは頭に入れておきたいです。何となく。

まあ理解してないもしくは理解できない神秘性が名言を担保しているなら論理性を伴っていないことは仕方ないと思います。本当に理由がさようなら。

byby

ナルシズム論 その1 -受動と能動-

どうも,たけです.

君に思想はあるか...?

 

新シリーズ,ナルシズム論.

ナルシズムは常に僕の判断を鈍らせようとしてきます.このシリーズでは僕が自己のナルシズムとの戦いの中で見つけてきた陶酔ポイントを発表します.

 

僕が何年か前に好きなロックバンドのライブに行ったとき,そこでは観客たちがジャンプしたり手を振ったり歌ったり叫んだりしていて,できる限り集中して視聴したい僕にとってはすさまじく邪魔でした.なんでそんなことするんでしょう?

 

そういうのが楽しいのはすごくわかるんですけど,それって相手が何してようが結局自分の世界で楽しんでしまうナルシズムだと思います.おいしい手の込んだ料理にマヨネーズとケチャップを大量にぶっかけて食べるようなもんです.

ロックバンドのライブを全員直立不動で一心不乱に聞いてるなんて状況は誰もうれしくないのはわかるんですけど,僕は格上のライブに来て格下の自分がそれを聞かずに自己主張する気になれません.人のライブに行っても自分の行為に楽しさを求める人.一観客であることに耐えられず名前を呼んで気を引こうとする人.人の話を聞いていてもすぐに自分の話に持ち込む人.漫画の展開に文句を言う人.それそのものよりもそれを楽しめていることが楽しい人.享受することよりもナルシズムによる能動的行動の楽しさが勝っています.もったいなくない?

 

あとは共感も似ています.相手の話を受け入れるのに共感というナルシズムを介する必要があるのかどうか.わざわざ自己と相手を調整してまで共感する必要などなく,そのまま受け入れられた方がいい気がします.

 

単に自分がそういう楽しみ方をできないことをひがんでるのかもしれません.道ずれにしたいのかも.今度からは二階席てきな落ち着いたところにしようと思います.

チキンスープ

どうも,たけです.

俯瞰的に見ている自分を俯瞰したが最後,再帰による無限ループに陥ります.

 

ここ一ヶ月くらいわりと人生と戦っていて,死にたくなりながら生きていました.特に先週あたりはけっこーやばかったんですが,先日ふと一つの悟りてきなsomethingが降臨して勝利しました.こういう感動的な出来事を文章にして発表するのは無粋な気もしますが,大学生がウユニ湖の写真をInstagramに投稿するような気軽さで書いていこうと思います.

 

何度も書いてますが今のキャンパスはとても寂しいです.僕はうっかりあと5年ここに通うことになったため,2年後同期が卒業したら無収入彼女無し実家暮らしの24歳男性として独りここに取り残されるわけです.そしてそのまま無収入彼女無し実家暮らしの28歳男性になるわけです.今からそのことを憂い恐怖し,焦っていました.まだ間に合ううちに,早く心の拠り所を作らねばならぬと.

 

自分が100%没頭できるほど研究を好きじゃないことに気がついたので,ストイックな研究生活への憧れを捨ててもっと趣味に勤しんだり遊んだりしようと考えました.気晴らし性能を考えるとそれはキャンパス外に必要です.ストイックへの憧れも捨てきれないため罪悪感が伴いますし,漫画を読んでもサークルに行っても「かりそめ感」がぬぐえませんでしたが,焦る僕は慣れることを信じてとにかく外の世界に救いを求めていたんです.まずはプライドを捨てて人を頼ってみようと.

そうしたときに,新しい人間関係を構築する気力など持たない僕には既存の人間関係に依存するという選択肢しかありません.しかし僕にとっては冷凍保存した新鮮な過去の親しさは,成長した相手から見てもそうとは限らぬわけです.こじらせた僕が一方的に相手を頼ることで本来保存できたはずの良き関係を破壊してしまう危険性にも僕はまた恐怖します(実際に慕ってくれてた後輩や元カノに慰めてもらおうと連絡した後これに気づいて死にたくなった).

また現実拡張作戦 を考えたときは「サークル行くぞー」ってなってましたが,それもすぐに怪しくなりました.サークルの人たちはくそ優しいので受け入れてくれると思うのですが,その情けを僕が受け入れられるかどうか.卒業後に寂しさのあまりキャンパスを越えてまで後輩に構ってもらいに行くのは老害っぽいしださいなって思っちゃうんです.「サークルなんて行く暇無いよ」ってのがかっこいいと思ってる.保存するか依存するか,どうせ過去に生きるならせめて自分の築いてきた印象を保存した方がマシなのではないか,この選択肢ができたことで身動きが取れなくなりました.

 

そうやって暗い気持ちになっていましたし,とにかくキャンパス外に何かを求めていたため,キャンパス内のコミュニティを無下にしていました.うちの研究室は学年ごとに誘い合って昼食に行く習慣があるのですが,それもなんとなく避けてました.僕はそれどころではないのだもの.

 

そんなこんなで,学校に行っても研究室を出てひたすら散歩したり,公園でぼーっとしたりするようになり,これはいよいよ何とかしないといけないなと思ってたころ,ふと,来た.理解したんです.

 

僕はJ・D・サリンジャー作,野崎考訳の「フラニーとゾーイー」という本に多大なる影響を受けています.3週間ほど前に読み返していた(そのときにレビューてきなものをここに書いたのですが恥ずかしくなって消してしまった)ので記憶に新しかったこともあり,またこの本に救われました.

この本は病んじゃったフラニーとその兄ゾーイーとの対話が中心で,最後には愛に溢れた衝撃的で目から水晶体がこぼれ落ち痺れるようなクライマックスを迎えるのですが,その話の中で「チキンスープ」というものが出てきます.フラニーは母ベシーが作るチキンスープを「チーズバーガーが食べたい」とか言って拒否し続けちゃうんですが,ゾーイーはこれを「君はなんにもわかっちゃいない」とかなんとか批難するんです.4年ほど前に初めてこの本を読んで,その後も何度も読み返してきましたが,この「チキンスープ」の意味を,なんと,ついに,(今の僕なりのものとして,)理解したんです.

 

後輩が「来て下さいよー」って言ってくれるサークルも,研究室の友人に誘われる昼食も,そういう僕に出欠の選択を許されたあらゆる人間性回復の場は,すべて神から差し出されたチキンスープだったのだと!!

どっひゃ~~~~~~~~!!

 

ならばおいしくいただこうではないか!!

 

はい,解消.

ん,いや,解消したのかな?

2年後への恐怖が消えたわけではないけれど,焦りは吹きとんだか.じゃあ解消.

 

また一つ強くなってしまった.

啓蒙

どうも,たけです.

幸せを諦めたらそこで人生終了だよ.

 

今日のは論理や筋を通すつもりはなく,ただ思ったことを書くスタイルです.

最近よくTwitterとかで「若者は選挙に行こう」てきな発言をよく見ます.僕は生まれつき政治に興味がなくて,今までも政治の事やいつ選挙があるかとか選挙制度のこととか良く知りません.まだ13歳ですしね.これは政治を良くすることを考えると良くないことだと思います.ほんとにダメなやつですよ.はい.僕は今,自分の非を認めました.ここからは自分の非を認めた上で,ある仮説を述べます.

 

「政治に興味を持ってほしい」という主張,これはわからなくはないです.でも「投票に行ってほしい」はよくわかりません.投票に行く程度の興味すらない人間の意見を政治に反映させてどうするんだろう.それによって達成されるのは「若者向けの政治」ではなく「政治に興味のない若者に投票されやすい政治」ではないだろうかってひねくれます.この話は以前の記事でしました.

 

将棋に興味のない人間に将棋に興味を持ってほしいって言ったって,持ちます?

将棋に若者が参加することで将棋がもっと若者に親しみやすいものになるって言われたって,それって自分は将棋に無関係だと思ってる人からしたらメリットにならないと思うんです.やはり物質的な損得に訴えかけるしかない.これも前書いた

 

啓蒙しようとするような人はそもそも啓蒙しようと思うくらいモチベーションが高い人です.そして啓蒙って上からっちゃ上からなので,気持ちよさが伴うと思います.このブログの僕の記事も読者を啓蒙してやろうという高慢な下心があることを隠せていませんが,そんなことは考えるのが好きでこのブログを読む体力があってそもそも僕と意見が合いやすい人だけを相手にしています.そしてそうであることが優れた性質だとは思っていません.僕自身はその完璧主義的発想や考えすぎで苦しい時が多々あるからです.啓蒙することの気持ちよさに呑まれて,そもそもそれが相手のためになるのかどうかを見失うのは危険です.僕はみんな自意識に苛まれて幸福感がマヒすればいいのにと思いながらこのブログを書いています.

 

啓蒙的発言を聞いて,それで啓蒙される人が一人でもいるなら啓蒙の価値はあります.啓蒙されない人は最初からいないのと一緒なので,その失敗はなんのマイナスにもなりません.なので啓蒙したい人がどんどこ啓蒙に挑戦することは元気でいいと思います.ただ僕はどちらかといえば反抗期側の人間で,気を許してない人から何かを要求されることをものすごく不快に感じる病なので,無視したくなります.無視したくなったはずなのに,無視せずにブログを書いてしまいました.もう素直に投票所いこうかな.でもそれに向けて何かを調べる程度の興味もないのもたしか.そうすると特定の政党を支持してないとき用のあれはやっぱ近代的ですごいのかなって思ったり.知らんけど.

 

「啓蒙」というタイトルで書くとあらゆる文言が啓蒙目的に見えなくもないですが,そんなことはなく,僕はありのままのあなたを愛しています.

現実拡張作戦

どうも,たけです.

好きな人がいる人が好きな人と会えない時って胸が苦しくなるてきなきゅんきゅんがあると思うんですが,僕も好きな人がいないことで好きな人に会えないので同じようにどこかの誰かに胸がきゅんきゅんしています.

 

前回わりと暗めの記事を書いたように,この週末はわりと暗く過ごしました.前の金曜日に久しぶりに愛するサークル活動に参加してきた反動です.いつのまにか楽しいことには反動が伴うようになりました.

調子がいいときは思想力でなんとでもなるのですが,そうでもないときは思想力より感情や環境の力が強いので負けます.それは暗い気分を楽しんでるとも言えるのですが,少なくとも集中力が死んで生産性の面で損してるので,根性論ではなくちゃんと作戦を立てて何とかしようと考えました.

 

憂鬱の原因の一つは,今の生活圏が狭すぎることと,僕が自分をそこに縛ろうとしていることです.どうやら僕は日常の生活圏とその外とを明確に区別し,「日常」と「非日常」,さらには「現実」と「非現実」とでも分けて処理してるっぽいんです.

まずは現実.昨年度からキャンパスが山奥の寂しいところ(最寄のコンビニまで片道徒歩20分)に変わり(僕はあと5年ここにいなければならない),生活圏がめちゃめちゃ縮小しました.家と学校の間には信号すらなく,一つの山の側面で生活が完結しています.研究室に行っても特に出来事はなく,登場人物も少ない(そして男の人しかいない).

そんな現実と比べて,例えば僕が愛するサークルの活動(河川敷をみんなでほのぼの走る)に参加するときは,なんせまず電車に乗って出かけるので物理的な日常の生活圏から脱します.そして愛する友達と楽しく走って,一緒に晩御飯とか食べちゃうわけです.非現実的にものすごく楽しい.

 

僕は自分を研究室に縛ろうとしてきたので,今の環境になってから遊びもサークルもめちゃめちゃ蔑ろにしてました.そのせいで,そういう楽しいことが全て「非現実」のものになってしまったっぽいんです.そしてそれらの楽しさは「非現実」のものであるが故に「現実」には持って帰れません.「非現実」で楽しい思いをしたところで「現実」は楽しくならないんです.

 

ということで,「現実の範囲を広げる」という作戦を取ることにします.

例えば同じ頻度でサークルに参加するにしても,「基本的に不参加,ごくたまに顔を出す」のではなく,「基本的に参加,いろいろあるので仕方なく欠席している」という認識に改めることにします.これでサークル参加が基本事項となり現実に迎え入れられました.これだけでだいぶ精神が穏やかになったので,あとは下らないこだわりを捨ててほんとにちょいちょいサークルに参加すれば安定する気がします.あとちゃんと自分から友達誘って遊んでもらおうと思います(誘われたという免罪符がないと遊びにくい).

 

長々と書いたけれど,結局「久しぶりにサークル行ったら楽しかったのでこれからはもっと行こうと思います.」というだけのことでした.どんなに孤高を気取ろうと,寂しさには勝てないとです.

 

エリート意識なんて捨てちまえ

closedin.hatenablog.com

ミロのヴィーナスとアルジャーノン・ゴードン曲線

ざわです。来る日も来る日も山の崎まさよし「One more time, one more chance」と全く同じ気持ちで小学校のころ好きだったさやかちゃんを探しています。誰か小学六年生で止まってる僕の恋時計を動かしてください。

 

僕はめちゃくちゃアダルトなビデオを見るんですが悩みがあります。アダルトなビデオを見てるときに

「これほんまにエロいんか?、俺の探してるエロはこれなんか?」

と自問自答に陥って萎えちゃうことがあります。そんな日は、顔、スタイル、シチュエーション色々と探して見るのですが、どのアダルトなビデオもピンと来ないんです。

こんな感じで悶々とした夜(たまに朝昼)を過ごしていたのですが最近やっと答えの動画が見つかりました。

イメージビデオです。

でもなんで何も見えていないイメージビデオの方がエロく見えるのでしょうか?

答えは高校の国語の時間に教えてもらっていました。ミロヴィーナスの評論の中に書いてありました。内容は「来腕が欠損しているミロのヴィーナスが美しく見えるのは、その欠損部分を各々が想像によって美しく補うからだ」という感じでした(多分)。

イメージビデオも見えていないことによって僕の理想を投影することができ、理想のエロさを醸し出せるのというわけです。義務教育がこんなところで役に立つとは...

 

昔はちょっとの露出度で満足できていた、そしてじわじわと露出度を上げていき、今に至っては逆に露出度を下げていく。横に時間軸、縦に露出度をとると完全にアルジャーノン・ゴードン曲線を辿ってる。最終的には無に近いところからエロを見出せるようになりそうだ。

 

以上、現場からの報告でした。

魔が差す

どうも,たけもりです.

来る日も来る日も山崎まさよしの「One more time, One more chance」と全く同じ気持ちでまだ見ぬ運命の人を探しています.

 

いつからか「そのうち魔が差すんじゃないかな」という漠然とした不安を肌で感じるようになりました.

道端に落ちている空き缶をポーンと蹴り飛ばした後,その無意味で無慈悲な暴力性に気がつきゾッとしたことがあります.もしそのとき僕がたまたま右手に包丁を握っていて,道端に落ちていたのが肉塊だったとしても,同様に何も考えず刺してたんじゃないのか.人は状況が揃って魔が刺しさえすればなんだってやるんじゃないのか.誰もそんなに違わないんじゃないのか.

 

わかる人にはわかると思うんですが,「死ねる感じ」ってあります.なんとなく寂しいときとか,友達と遊んだ後とか,特に何もないときでも,ふとした瞬間にいろんなことが虚しくなって,「あ」となって「すっ」となって,死ねる感じになるんです.死なないんですけどね.魔が差して思考停止する前提だから,為す術ないのがちょっと怖い.人身事故による遅延情報を見ると,この人は遺書とか書いてその気で死んだのかな,それともなんか死んじゃったのかなって思ったり思わなかったり.

 

今日はいつもより多めに「あ」ってなりました.何にも手がつかないのでブログに吐き出してみるという,摩訶不思議,死ねると見せかけて前向きである.ふと魔が差してやらかしちゃう,そんな非日常性に焦がれた逃避行動なのかもしれない.

だとして僕はどうすればいいのだ.やるしかないのは知ってる.救いがあって救いが無い.虚しい世の中であるよ.誰か毎日おいしい飴を与えてくれないものか.達成感の味がする飴.